レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20170704
- 登録日時
- 2018/01/28 00:30
- 更新日時
- 2020/04/09 11:02
- 管理番号
- 中央-2017-12
- 質問
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解決
東京音頭はいつ作られたのか。
- 回答
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資料1のp.638に「東京音頭」の項があり、東京音頭大ヒットの背景として「一九二九年(昭和四)の世界経済の大パニックや、中国大陸へ広がる戦火などがあり、庶民は重苦しい気分を転換させたがっていた。そうしたことをくみ取って、西条八十が作詞し中山晋平が作曲し、初めは『丸の内音頭』の名でレコードに吹き込まれた。」と記載されている。
次に、<丸の内音頭>や<東京音頭>をキーワードに都立DBを検索すると以下の資料2-5がヒットした。
資料2のp.3-4に「丸の内音頭」があり、丸の内音頭の誕生から東京音頭に改められた経緯が記載されている。p.3に「ふしがよく、歌詞がよく、流行(はや)つた丸の内音頭を二、三年続けた――が、誰れ彼れなく歌える――踊れるものにしようということで、東京中を歌い込む歌詩に改めることになつた。これが今、歌われてる東京音頭の歌詞だ。丸の内音頭はその名のように、麹町地区内に限られたものだけを詠み込んだものだつた。これが東京の広域を詠み込み替えられて、歌うようになつたのが東京音頭である。」と記載されている。
資料3は、東京音頭を歌った三嶋一声について書かれている。p.254-265に「10 大変身 東京音頭」があり、「実は、この歌は前年発表された「丸の内音頭」の改作である。(中略)昭和七年十月、東京市は周辺の八十二ヵ町村を合併し、三十五区の大東京がうまれた。これを機に市民全部が歌えるものを、との声が上がり、できたのがこの東京音頭である。」(p.256)と記載されている。
資料4のp.26-27に「銀座はやり歌 東京音頭」があり、「前奏に「鹿児島小原節」の前奏を使ったこの歌は、実は改作であった。昭和七年八月に藤本二三吉の歌でビクターが出した「丸の内音頭」と同じメロディーなのである。東京市が近郊の町村を編入して三十五区の大東京になったのを機に、東京全体の歌に歌詞を改めて、さらに飛躍をねらったのである。」(p.27)と記載されている。
資料5のp.67-71に「元祖『東京音頭』・お見知りおきください 丸之内音頭」があり、丸の内音頭の誕生から東京音頭に改められた経緯が記載されている。p.70-71に「レコード発売と同時に破竹の大ヒットの気配じゅうぶんだったものの翌年東京市が三十五区の都制を施くやいなや、「丸の内から大東京の唄へと広げよう」と、ビクターの方針によって、メロディはそのまま、歌詞は東京音頭へと全面サシカエ。」と記載されている。
また、雑誌記事を検索できるデータベース「CiNii Articles」(国立情報学研究所)」(http://ci.nii.ac.jp/ 最終検索日:2017年11月8日)で、キーワード<東京音頭>で検索すると、次の資料がヒットした。
この資料は、インターネット上で公開されている。
『商学研究』 第31号(2015年3月) 日本大学商学部商学研究所 2015.3 (https://www.bus.nihon-u.ac.jp/wp-content/themes/nichidai/assets/img/unique/laboratory/kiyo/OsakabeYoshinori31.pdf 最終アクセス日:2020年4月9日)
p.128(1)-106(23) 刑部芳則著「東京音頭の創出と影響―音頭のメディア効果―」
p.125(4)-122(7)に「二 丸の内音頭と東京音頭」があり、丸の内音頭の誕生から東京音頭に改められた経緯が記載されている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 声楽 (767 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】日本大百科全書 16 て-とく / 小学館 , 1987<DR/0310/38/16A>
- 【資料2】日本橋界隈(続「檜物町記」ほか)歩記 :うつりかわり・有楽町街・丸の内音頭・おでん,小説「だんな二代とその娘」 / 田中閑水/著 / 東京史実研究会 , [1976]<T/33・290/5015/31>
- 【資料3】最後のロマン : 三嶋一声一生旅 / 北条 喜八/著 / あまのはしだて出版 , 1999.11<T/0・900/5004>
- 【資料4】銀座百点 398号 (1988年1月)
- 【資料5】丸の内 193号 (1987年7月)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000229282