レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/01/13
- 登録日時
- 2014/02/06 00:30
- 更新日時
- 2014/02/07 17:56
- 管理番号
- 6000014382
- 質問
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解決
『新修豊中市史』第1巻の、江戸時代の豊中市域の医療についての記述(p840)の中で、大坂市中と豊中市域の医師のつながりにふれた部分があるが、ここには名前の出てこない、薬の町として有名な道修町ともつながりがあったかどうかわかる本はあるか。
- 回答
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『聞き書き とよなかの史跡巡り』に中桜塚の瑞輪寺に道修町の承認が寄付した仏像があるとの記載があり。また道修町にあった適塾と豊中在住の人物とのつながりを示す資料などもあり。詳しくは回答プロセス欄に記載。
- 回答プロセス
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雑誌「大阪春秋」第31号(昭和57年10月)p14「座談会 道修町むかしむかし」に、山本重三郎商店代表社員山本鹿之助氏の談話として、山本家の先祖は豊中市の庄内村(昔の椋橋村)にいたが正保4(1647)年に道修町の家屋敷を購入して移ってきたとの記載があり。
『聞き書き とよなかの史跡巡り』(瀧健三)p24-25に豊中市中桜塚の瑞輪寺に道修町の薬店から寄付された薬師如来があるとの記載があり。
豊中と道修町の直接の関わりを示す資料は上記2点のみだが、『大阪 地名の由来を歩く』(KKベストセラーズ)p80-83「道修町 全国に知られた薬と『春琴抄』の町」には道修町の地名の由来のほか、見所として緒方洪庵の開いた適塾が紹介されている。
また『自由学問都市大坂 懐徳堂と日本的理性の誕生』(講談社)p209には、適塾と大阪の町人学問所である懐徳堂は100mほどしか離れていなかったとの記載があり。『新修豊中市史』第1巻p383には、今西玄芳について懐徳堂関係者等多くの儒者と交流を持ったと記載がある。
『緒方洪庵と適塾』(大阪大学出版会)p152「大坂除痘館分苗所一覧」嘉永3(1850)年に「摂州桜井谷 津田玄吾」の名があり、豊中市の桜井谷地域在住の人物と推察される。除痘館および日本の種痘のはじまりについてはp65-71に記載があり。なお、p118-120「適塾の門下生たち 大阪府」には豊中市に関わりがあると思われる人物はなし。p157「門下生氏名 大阪府」にも新修豊中市史索引との一致はなし。
今西玄芳については『新修豊中市史 第7巻 民俗』(豊中市)p242に今西玄芳正立斎の名で「尊重圓」という今西家家伝の薬を作った有名な漢方医との記載があり。『大阪人物辞典』(清文堂)p120「いまにししょうりゅうさい」にも、腕がよい博覧強記の医家で文人墨客と交わったなどの記載があり。懐徳堂との関わりについての記載はなし。
このほか、道修町については『大阪の町名 大坂三郷から東西南北四区へ』(清文堂)p139-142、『上方文化を探索する』(関西大学出版部)p87-93、『船場道修町 薬・商い・学の町』(人文書院)などに記載があり。
適塾・懐徳堂については『大阪大学の歴史』(大阪大学出版会)p36-44、『大坂学問史の周辺』(思文閣出版)『適塾をめぐる人々』(創元社)『懐徳堂 18世紀日本の「徳」の諸相』(岩波書店)『適塾の謎』(大阪大学出版会)『「適塾」の研究 なぜ逸材が輩出したのか』(PHP研究所)『懐徳堂の歴史を読む』(大阪大学出版会)『懐徳堂ゆかりの絵画』(大阪大学出版会)などに記載があるが、いずれにも豊中に関する記載はなかった。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『新修豊中市史 第1巻』 豊中市史編さん委員会/編集 豊中市
- 『とよなかの史跡巡り』 瀧 健三/編集 瀧 健三
- 『大阪地名の由来を歩く』 若一 光司/著 ベストセラーズ
- 『自由学問都市大坂』 宮川 康子/著 講談社
- 『緒方洪庵と適塾』 梅渓 昇/著 大阪大学出版会
- 『新修豊中市史 第7巻』 豊中市史編さん委員会/編集 豊中市
- 『大阪人物辞典』 三善 貞司/編 清文堂出版
- キーワード
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- 道修町(ドショウマチ)
- 船場(センバ)
- 大阪(オオサカ)
- 豊中(トヨナカ)
- 歴史(レキシ)
- 今西玄芳正立斎(イマニシゲンホウショウリュウサイ)
- 懐徳堂(カイトクドウ)
- 適塾(テキジュク)
- 瑞輪寺(ズイリンジ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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『懐徳堂の歴史を読む』p54には懐徳堂と適塾の交渉について、200mほどしか離れていないが前者は中国の古典を中心とする漢学塾、後者はオランダ語を通じ近代科学を学ぼうとする蘭学塾で交流はなかったが、嘉永7(1854)年のプチャーチン率いるロシアの軍艦ディアナ号の大阪来航の際、適塾の学生と懐徳堂の教授が天保山に詰めていたとの記載があり。
なおGoogleで「豊中 道修町」で検索すると、豊中市若竹町の住吉神社についてのWikipediaの記事がヒット。公式サイトを確認すると、摂末社のページhttp://www.wakamiyasumiyosi.com/index.php?%E6%91%82%E6%9C%AB%E7%A4%BE に、近年氏子宅から遷した薬祖社が、道修町の少彦名神社からの勧請であるとの記載があり。こちらも合わせてご紹介した。
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000148903