レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016/3/11
- 登録日時
- 2016/04/21 00:30
- 更新日時
- 2016/04/21 00:30
- 管理番号
- 滋2015-0061
- 質問
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解決
小谷城下に「小谷寺」があるが、これは元浅井三代の「徳勝寺」(菩提寺)があったところか。
- 回答
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『湖国百選 社寺』によると、「小谷寺は、戦国時代江北を勢力圏とした浅井氏の居城があった小谷山を北に望み、その城下町を形作っていたあたりの伊部村(現在の湖北町伊部)にあります。」とあります。『滋賀県百科事典』には、「東浅井郡湖北町伊部に所在する真言宗豊山派の寺。本尊は聖如意輪観世音。728年(神亀5)僧泰澄の開基、はじめ常勝寺と称した。その後1426年(応永33)荒廃した仏堂を改修、1429年(永享元)後花園天皇より如意輪山の勅額を下付され、くだって1514年(永正11)浅井家の祈?寺となったため20町余の寺地をえ、小谷寺と改称した。1573年(天正元)織田信長と浅井長政の戦火により、古記録、寺宝などをうしなう。1591年(天正19)境内ならびに石高44石の朱印地となり、1593年(文禄2)に寺地を南方約400mの現在地にうつす。(後略)」とあります。
一方、『滋賀県百科事典』によると、徳勝寺は「長浜平方(ひらかた)町にあり、山号を興福山という。俗に生駒の徳勝寺といい、開創の年次は不明であるが、応永(1394~1428)のころ竜山株源が再興し、浅井亮政が小谷城をきずくにあたり、小谷山麓清水谷にうつして菩提寺とした。1573年(天正元)浅井氏がほろび、木下秀吉が浅井氏旧領を知行するにあたり、その城府を長浜にうつすとともに移築されたものである。小谷にあったころは医王寺と称していたが、長浜にうつし、浅井亮政追福のために亮政の法号にちなんで徳勝寺とあらためたという。(後略)」とあります。『近江長濱町志 第2巻』には、「徳勝寺は興福山と号す。坂田郡六荘村大字平方に在り。境内は四百七十三坪官有あり。曹洞宗の四等法地六十一級にして、大和志磯郡味間村補巌寺の末寺なり。もと浅井郡小谷村に在り。(後略)」とあり、同じ場所ではないようです。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 8版)
- 参考資料
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- 1 湖国百選 社寺 滋賀総合研究所∥編集 滋賀県 1993年 S-1600- 93 p.92
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2 滋賀県百科事典 滋賀県百科事典刊行会∥編 大和書房 1984年 S-0300- 84 p.519 -
3 近江長濱町志 第2巻 本編 中 中川泉三∥編 中澤成晃∥[ほか]校訂 臨川書店 1988年 S-2161-2 p.381 -
4 近江・若狭・越前寺院神社大事典 平凡社∥編集 平凡社 1997年 S-1600- 97
- キーワード
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- 小谷寺
- 徳勝寺
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000191475