【規則が始まった時期】
資料1のp27~28に「当時の映画館は座席が男女別になっていた。ただし、夫婦用に男女同伴席ももうけられていたし、一人一脚形式の椅子席の場合はこの種の区別を設けなくてもよかった。……」と書いてあります。「当時」とは、1937年ごろのことです。この箇所についての注33をみると「『警視庁令』(映画法施行細則)(『昭和16年映画年鑑』これは1940年制定であるが、付則の内容から、以前から同内容の法令があったと推定される」と書いてあります。
資料2のp595には「興行場及興行取締規則」(大正10年7月警視庁令第15号)第62条2項「男女ノ客席ヲ区別スルコト但シ同伴ノ男女ニ対シテハ特ニ客席ヲ設ケ本制限ニ依ラサルコトヲ得」とあります。
資料3のp60には「仮設興行場取締規則」(大正12年9月警視庁令第48号)第3条11項「活動写真館ニハ男女席及同伴席ノ区別ヲ設クルコト」とあります。
資料4のp492には「東京の警視庁保安部長丸山鶴吉は、活動写真興行と売淫行為とを同列に見て、共に『確固たる取締方針を確立する決心』を明らかにし、大正六年八月一日を期して、つぎの如き取締規則を発令実施した。
一、興行用フィルムを甲乙二種に分ち、甲種フィルムは十五歳未満の児童の観覧を禁ずること。二、男女により観覧席を区別し、特に夫婦用の同伴席を設くること。」とあります。
資料5のp150-154に「庁府県令活動写真興行取締規則抜粋」という表があります。活動写真フィルム興行取締に関する府県令を一覧にしたものです。愛知県の欄には「男女両席ノ別アリ外ニ同伴席ノ設アリ」とあるので、愛知県にも規則があったことがわかります。
資料6のp334に「映画は、はじめ活動写真と呼ばれ、東京・大阪についで、本県でも明治の終わりころには、名古屋に常設の活動写真館が設けられた。そして大正のはじめから急激に発達、当時不振をきわめていた演芸にかわって人気を博した。ところで、これらの取り締まりは、はじめ演芸取締規則(明治二七、三、一九県令第二六号)や劇場及諸芸場建設規則(明治二七、三、一九県令第二五号)によって実施してきた。しかし、火災予防、風俗上の問題から、一段と取り締まりを強化する必要に迫られ、単独の取締規定として、大正四年九月県令第六三号をもって「活動写真取締規則」を制定した。おもな内容として、活動写真の興行は所轄警察署の許可を受けること、必要なときは活動写真のフィルムの検閲をすることがあること、映写室は耐火構造とすること、興行時間は日出時から午後十一時までとすること、客席は男子と女子を区別すること、などがあげられる」
資料7には「県令第六十三号 活動写真取締規則左ノ通定ム 大正四年九月八日 愛知県知事 法学博士 松井茂 活動写真取締規則 第一条…(略)…第十一条 客席ハ男子ト女子トヲ区別スルコト但シ十二歳未満ノ者及区画セル客席ヲ買切ル場合ハ此ノ限ニ在ラス 男女同行ノ場合ハ男席ニ入ラシムヘシ」とあります。
【規則が終わった時期】
資料8のp225-227に「映画館にたいする規制」という項目がありますので、引用します。
「男女席等の区分については誤解をまねきやすい問題なので詳述したい。たとえば『映画館で男女別にわかれて座る規則が廃止になるのは翌年[1931年]の一月なので、[まだ]女性は左側に、男性は右側にわかれて座っていた』という記述が映画史家ピーター・B・ハーイの著書(注:資料9)にあるが、これも読者に誤解をあたえなかねないものになっている。たしかにこの規則は東京では施行から一三年半後の一九三一年に正式に廃止されるが、それ以前厳守されていたかというと、かならずしもそうではなかった(とりわけ一九二三年の関東大震災以降は遵守がむずかしくなった)。…(略)…逆に東京もふくめ地方によっては、一九三一年の規則廃止以降も、男女別席の習慣が長く定着してしまう映画館があった。要するに一九三一年を境に、男女席の区分が完全になくなったかのような印象をあたえる映画史的記述がよく見受けられるが、そんなことは全然なかったのである。いずれにしても多くの映画館で長いあいだ観客席が男子席、婦人席、および男女同伴(夫婦)席に区分されていたということは、映画館内での性的障壁が高かったということであり、倫理的観賞第度が公権力(臨検警察官による警視)のみならず、文化的習慣によって強制されていたことを意味する。」