まず、【資料①】『いわき市史』を調べるために、日充が磐城平に流された年を調べた。
検索機で「不受不施派」を検索すると【資料②】『日本庶民生活史料集成 第18巻』がヒット。p189~の「日蓮宗不受不施派」を確認するも日充については記載されていなかった。
Googleブックスで「日充」を検索すると『総合佛教大辞典』と『仏教大辞典』が該当しそうだった。当館所蔵の【資料③】『総合佛教大辞典』を確認すると、p1103「日樹」の項目に「日奥の不受不施義に唱和し、~中村檀林の日充~らと共に関東に不受不施義を立てた。ために身延山~と対決し、寛永7年信濃飯田に配流」とあった。【資料②】のp190に「寛永7(1630)年には身池対論で~幕府によって、日樹等7人が流罪された」とあったので、日充もこの年に磐城平に流されたと思われる。
1630年の磐城平藩主は内藤政長なので、【資料①】『いわき市史 第2巻 近世』の「第1章 磐城平藩」や『内藤侯平藩史料』、『いわきの寺』などを確認するも日充については記載されていなかった。
郷土資料担当に確認すると【資料①】の「第6章 神領と分領 第4節 多古分領」に記載があるとのこと。p801に次のような記載があった。
「多古は禁制日蓮宗不受不施派(日蓮宗の一派で、法華を信じない者の施しを受けず、また施さないのでこの称がある。文禄4年京都妙覚寺の日奥がその祖といわれている)の盛んな所である。寛永7年(1630)2月21日酒井雅楽頭の邸内で、身延山久遠寺の日暹(にっせん)ら(受不施派)と池上本門寺の日樹、日充ら(不受不施派)との間で行われた「身池対論」において不受不施派は敗れた。そのため多古町中地区中村檀林八世の能化(除歴)日充は、磐城平藩主内藤忠興(このころはまだ泉におって、磐城平藩主ではなかった)のもとに預けられたことは、不受不施派弾圧史上有名な事実ではあるが、いわき市ではあまり知られていない。「忠興は窪田に寺屋敷地を与えて居住させ」(『日蓮宗宗学全書』第21巻)たとあるから、忠興は日充を多古の地に関係の深い妹婿土方雄重(ひじかたかつしげ)に託したのではないかとも考えられる。いずれにしても「窪田における日充上人の動静について」は今後の大きな研究課題であり、市民各位のご教示を得たい。」
また『いわき市史 付録№4』(昭和50年8月)p8の「本藩視察」に次のような記載があった。
「~平藩内藤忠興公の時代、同派の日充上人が迫害を受けていわきに流され、窪田地区を中心になおも布教活動にしたがった~」