レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年02月20日
- 登録日時
- 2017/03/15 16:37
- 更新日時
- 2017/03/17 08:36
- 管理番号
- いわき総合-地域490
- 質問
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解決
内藤風虎、露沾親子が松尾芭蕉と交流があったことから、当時のいわきは俳句が盛んになったと聞いたが、それは本当か?また、この親子の影響を受け、芭蕉の俳句を学んでいた人にはどんな人物がいたか知りたい。
- 回答
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内藤風虎は、磐城平藩主・内藤義概の俳号。その子が内藤露沾で、特に松尾芭蕉と親交が深かったのは、子の露沾である。風虎については『日本古典文学大辞典 第5巻』P217、露沾については『日本古典文学大辞典 第6巻』(ともに岩波書店)P309に詳しい事績などがある。
『いわき市史 第6巻 文化』の「二 近世いわきの俳壇」(P590~)に、内藤氏三代(風虎・露沾・沾城 内藤沾城は露沾の長男で、六代目藩主政樹のこと)の時代におけるいわきの俳壇についての記述がある。
これによれば、最も盛んであったのが元禄前後で、元禄八年(1695)に露沾がいわきに下って以来より盛況を呈し、全国的に有名になったそう。内藤氏三代の俳壇につくした功は大きく評価され、多くの門弟の養成、俳書の出版等を行った。しかし、大変な盛況をしめしたいわきの俳壇も、六代藩主の政樹(沾城)の延享四年(1747)の日向延岡に転封以来、火の消えたような状態になった。
同書P591~595にかけて、内藤氏三代の俳壇における功績やその門人などの記述がある。
『内藤露沾全集』(雫石太郎 こども新聞社出版部 1959)
風虎・露沾について詳細な記述があり、交友関係も掲載されている。P79より「露沾集」が収録。
『内藤風虎露沾俳諧展』(内藤風虎露沾俳諧展実行委員会 いわき地域学会 1996)
平成8(1996)年10月に開催された展覧会図録。P4-5には、風虎・露沾関係年表あり。なお、本図録の表紙には「露沾芭蕉俳人図」が用いられ、左から「芭蕉、素堂、露沾、敬雨、その女」とある。(P7および解説P5参照)
『図説いわきの歴史』(郷土出版社 1999)
「江戸俳諧の隆盛 内藤露沾」(P140)に、「露沾は西山宗因に学んだようだが、次第に松尾芭蕉と親しくなり、その後援者として重きを成し、蕉門の宝井其角らと親交を結んだ」とある。
「俳諧のパトロン」(P180)には、風虎についての記述あり。八橋検校のパトロンであったこと、寛文二年(1662)には西山宗因が風虎の招きで磐城入りしたことなどが書かれている。
『いわき』(歴史春秋社 2012)
P76-77に、風虎・露沾についてわかりやすくまとめてある。
露沾の項では、交友関係なかで江戸の水間沾徳、天野桃隣、京の片山助叟、芭蕉の門人であった斎部路通、江戸の水戸沾竹、尾張の月空庵露川、須賀川の相良等躬、江戸の稲津衹空、烏山の常磐潭北などが挙げられている。
『桜川』(松山玖也 大東急記念文庫 1960)
延宝二年(1674)に完成した風虎の俳諧撰集。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本文学 (910 9版)
- 詩歌 (911 9版)
- 参考資料
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- 【資料①】『日本古典文学大辞典 第5巻』[R/910.2/ニホ-5・1110104971]
- 【資料②】『日本古典文学大辞典 第6巻』[R/910.2/ニホ-6・1110104989]
- 【資料③】『いわき市史 第6巻』[K/210.1-1/イ・1110038559]
- 【資料④】『内藤露沾全集』[SK/911.1/ナ・1110073010]
- 【資料⑤】『内藤風虎露沾俳諧展』[K/911.3/ナイ・1110074430]
- 【資料⑥】『図説いわきの歴史』[K/210.1-1/イ・1111213870]
- 【資料⑦】『いわき』[K/210.1-1/イ・1114613027]
- 【資料⑧】『桜川』[K/911.3/サク・1110185673]
- キーワード
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- 内藤風虎 ないとう ふうこ
- 内藤露沾 ないとう ろせん
- 俳諧
- 磐城平藩
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000211783