レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017/6/17
- 登録日時
- 2017/08/03 00:30
- 更新日時
- 2024/03/29 00:32
- 提供館
- 金沢市図書館 (2310230)
- 管理番号
- 玉川-000521
- 質問
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解決
【加賀国と能登国の境目について】 加賀国と能登国の境目は現在のどの辺りか。
- 回答
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『石川県高松町史』(119563622)
P.169 金津庄と大海庄
「平安期に庄園化されて行った庄は、10世紀の前半に編さんされた『倭名類聚抄』によると加賀郡と羽咋郡は共に八郷からなる」と記載されている。
加賀国加賀郡(河北郡)
大桑、大野、芹田、井家、英多、玉戈、〔駅家〕田上
能登国羽咋郡
大(太)海、荒木、高家、羽咋、岡本、邑知、都知、神戸
「高松地区は駅家郷に含まれている。又大海地区は羽咋郡大海郷に含まれていた」と記載あり。
『日本歴史地名大系 17 石川県』(111271846)
P.59 加賀郡
〈大桑郷〉現金沢市大桑町。推定郷域は大桑町を中心としつつも犀川の谷頭左岸に限定する説、大桑町から犀川対岸の小立野台地まで広がっていたとする説、大桑町から下流に向かって広がり、同市の寺町台地から野町・中村町まで及んでいたとする説などがある。大桑町から犀川中流左岸まで広がっていた可能性がある。犀川の河道の変遷を考慮すれば郷域の正確な比定はむずかしい。
〈大野郷〉現金沢市大野町。犀川・大野川の河口周辺の海岸部とその後背地と考えるべきであろう。推定郷域内もしくはその周辺に位置していたと思われる遺跡にビワ塚遺跡、北塚オマル塚古墳などとともに寺中遺跡、無量寺遺跡、畝田遺跡、藤江遺跡、古府クルビ遺跡などの集落遺跡がある。
〈芹田郷〉現金沢市千田町とするのが一般的である。郷域は、金腐川下流域の東西両岸にまたがる倉月庄の全庄域とする説、金腐川の東(右)岸に限定し、南東に接する小坂庄の庄域の西部も含むとする説、千田郷域を含む浅野川・金腐川の下流域一帯を想定する説などに分れる。
〈井家郷〉郷域は中世井家庄(現河北郡)の庄域の主要部を含み、現津幡町の南部から現金沢市域の北部にかけての地域、すなわちかつての河北潟東岸と砺波丘陵西麓に挟まれた沖積平地一帯と考えられている。
〈英多郷〉郷域は近世の英田郷(現津幡町・宇ノ気町)に近い範囲とされており、現津幡町北西部から現宇ノ気町南部にあたると推定されているが、正確な位置比定は困難である。
〈玉戈郷〉遺称地は現金沢市玉鉾町で、推定郷域は犀川・伏見川の合流点付近から犀川中流域にかけて広がっていたと考えられている。
〈駅家郷〉「延喜式」や「和名抄」にみえる加賀郡の駅は田上駅・深見駅・横山駅の三駅であるが、田上駅は加賀郡田上郷に関係するので、深見駅か横山駅にかかわる郷名であろう。深見駅に関係するとすれば当郷の位置は現津幡町付近、横山駅に関係するとすれば現宇ノ気町横山付近と推測される。
〈田上郷〉遺称地は現金沢市南東部、浅野川右岸の沖積地や河岸段丘上に位置する田上本町・田上町。郷域は、その周辺に限定する説、それらの地点から浅野川の下流域に延びて現金沢市街中心部まで広がっていたとする説がある。
P.647 羽咋郡
〈大海郷〉郷域については二説ある。一説は、郷域内に「延喜式」神名帳に載る羽咋郡の「相見神社」が存在したことを前提として、同社の後身を主張する相見神社の鎮座地である現押水町麦生付近とみる説、一説は大海川流域とその北側の前田川流域とみる説であり、加賀国に接し能登国の南隅付近、後者の説の可能性が高いと思われるが、高家郷の位置比定が困難であるため断定はできない。
〈荒木郷〉郷域は現富来町の中心部に比定されている。
〈高家郷〉現羽咋郡南部の子浦川流域とみる説、相見川流域の現押水町竹生野付近とする説があったが、近年の研究によれば、郡内の位置比定可能な「和名抄」所載の郷の分布と、古墳群や集落跡の分布を重ね合せることにより、子浦川流域の現志雄町、気多大社や寺家祭祀遺跡を含む現在の滝崎周辺地区、すなわち現羽咋市一ノ宮・甘田地区、志賀町甘田地区、於古川流域の現志賀町高浜・堀松地区の三地区が郷名未詳の遺跡集中地区として残ることがわかり、これらの三地区が郷域不明の高家郷、岡本郷、神戸郷のいずれかに相当すると考えられている。
〈羽咋郷〉郷域は現羽咋市の市街地とその周辺と考えられている。
〈岡本郷〉郷域については、現羽咋郡北部の海岸段丘上、富来町笹波付近とする説、同郡中央部の於古川流域とする説、現志雄町中心部付近とする説などがあったが、近年の研究により、高家郷、神戸郷とともにおよその郷域が推定されるようになった。
〈邑知郷〉郷域は飯山川流域を中心とした邑知潟南岸の沖積平地で、現羽咋市の中央部から現志雄町にかけて広がっていたと考えられる。
〈都知郷〉郷域は中世の土田庄の全域とみる説、現志賀町域の北半にあてる説があるが、いずれにせよ現志賀町域に存在したと考えられている。
〈神戸郷〉郷域は、現志賀町南西部の甘田地区にあてる説、同町中央部の堀松地区から北西部の熊野方地区まで及んでいたとする説、現羽咋市北西部の一ノ宮地区から現志賀町甘田地区まで及んでいたとする説などがあり、いずれにせよ現羽咋市北西部から現志賀町南半にかけての外浦沿岸地域にもとめられていた。近年の研究によれば、高家郷・岡本郷とともにおよその郷域が推定されるようになった。気多大社との関連で現羽咋市滝崎周辺を郷域とみる説も出されている。これに対し諸国の神戸郷の検討から神戸郷が必ずしも神社に隣接して存在する必要はないとし、郷域を現羽咋市北端-志賀町南端、中世の甘田保に限定してとらえる説もある。
以上から、駅家郷があった現在の津幡町・宇ノ気町辺りが加賀国の北端、高家郷があった現在の宝達志水町と考えられる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000219844