レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2008年12月16日
- 登録日時
- 2013/09/17 13:54
- 更新日時
- 2015/12/29 00:30
- 管理番号
- 10-3A-201309-10
- 質問
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解決
朝鮮通信使(江戸期)はどうやって大阪入りしたのか
- 回答
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『朝鮮通信使紀行』(杉 洋子/著 集英社,2002.8)p.129に、瀬戸内海を東に進んだ船団は、大坂の河口に到着すると、伝法口に碇を下ろし、小舟に乗りかえて古川を上って大坂に入った、というような記述があります。(ただし、同p.130には、1648年に新堀が掘削されてから、伝法口はやがて埋め立てられてしまったので、伝法口停泊は1682年の第七回までであろう、それ以降は九条船番所に近い尻無川河口が停泊場所になったと思われるとの記述があります)
『朝鮮通信使の足跡を訪ねて』(安岡 隆一/著 [安岡隆一],1998.6)p.50に、使臣が傳法辺りで乗り移った・・・という記述があります。
『海游録:朝鮮通信使の日本紀行』(申 維翰/著;姜 在彦/訳注 平凡社,1974)p.108に「河口で昼食をとった。ここはみな摂津州の地である。(中略)鐘屋といい、店浦(伝法)という」という記述があります。
『日東壮遊歌 : ハングルでつづる朝鮮通信使の記録』(金 仁謙/著;高島 淑郎/訳注 平凡社,1999.11)p.235に「大坂城へ入る 摂津州に属し 河の名は浪華という」とあり、注記に淀川河口を一名浪華江という、と記述されています。
『朝鮮通信使と江戸時代の三都』(仲尾 宏/著 明石書店,1993.8)p.75に「江戸時代の使節が毎回数百名にのぼる大規模な使節団であって、釜山より大型の船団を仕立てて瀬戸内海を東進し、大坂で川船に乗り換え、山城国伏見まで淀川を遡行する必要があった」、p.105に「朝鮮使節が大坂の地に一歩を踏みだすことになるのは土佐堀川南岸、難波橋よりやや上流の地点である」という記述があります。
『朝鮮通信使がみた日本』( 姜 在彦/著 明石書店,2002.6)p.107-119に、1624年の釜山から江戸までの路程の記述があります。p.111に「十一月十五日に大坂の尻無川河口のの店浦(伝法)に着いた。ここから大坂までは、吃水線の浅い川御座船に乗り換えた。」という記述があります。
『李朝の通信使 : 江戸時代の日本と朝鮮』(李 進煕/[著] 講談社,1976.6)p.134-139に尻無川の河口から西本願寺までの道のりについての記述があります。
『江戸時代の朝鮮通信使』(李 進熙/著 講談社,1987.4)p.136-142に上述の『李朝の通信使 : 江戸時代の日本と朝鮮』(李 進煕/[著] 講談社,1976.6)p.134-139とほぼ同様の記述があります。
- 回答プロセス
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- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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- 『朝鮮通信使紀行』 杉 洋子/著 集英社,2002.8<当館書誌ID:0010350052>
- 『朝鮮通信使の足跡を訪ねて』 安岡 隆一/著 [安岡隆一],1998.6<当館書誌ID:0000726999>
- 『海游録 : 朝鮮通信使の日本紀行』 申 維翰/著 ; 姜 在彦/訳注 平凡社,1974<当館書誌ID:0070076829>
- 『日東壮遊歌 : ハングルでつづる朝鮮通信使の記録』 金 仁謙/著 ; 高島 淑郎/訳注 平凡社,1999.11<当館書誌ID:0000769603>
- 『朝鮮通信使と江戸時代の三都』 仲尾 宏/著 明石書店,1993.8<当館書誌ID:0000338351>
- 『朝鮮通信使 : 善隣友好の使節団 : 特別展』 大阪市立博物館/編集 大阪市立博物館,1994.9<当館書誌ID:0000414119>
- 『朝鮮通信使往来 : 260年の平和と友好』 辛 基秀/著 労働経済社,1993.11<当館書誌ID:0000355785>
- 『江戸時代の朝鮮通信使』 李 進熙/著 講談社,1987.4<当館書誌ID:0070060827>
- 『朝鮮通信使がみた日本』 姜 在彦/著 明石書店,2002.6<当館書誌ID:0010331116>
- 『李朝の通信使 : 江戸時代の日本と朝鮮』李 進煕/[著] 講談社,1976.6<当館書誌ID:0012077813>
- キーワード
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- 朝鮮通信使
- 朝鮮
- 大阪府
- 上方
- 韓国
- 李氏朝鮮
- 江戸時代
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000137229