レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年09月05日
- 登録日時
- 2018/01/25 17:49
- 更新日時
- 2018/04/10 18:37
- 管理番号
- 2017-012
- 質問
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解決
近江牛の歴史について、発祥に近江八幡も関わっているかどうか確認したい。
- 回答
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近江牛の味噌漬けのルーツは江戸時代の彦根藩の贈答品にさかのぼります。
江戸時代に、唯一牛肉生産を公認されていたのが彦根藩です。日本でも養生肉としてある程度肉が食され、『彦根市史』には天明元年(1781)から明治3年(1870)にわたって彦根藩から諸藩への献上贈与が行われた記録があげられています。
江戸時代における久保村(のちの末広町)の食肉生産について、幕末に彦根藩領の薗畑村から食肉を扱う権利を買い取って精肉の生産がされたものといわれています。19世紀の初めには、売買を行い流通の一翼を担っていたことは確かで、幕末をさかのぼる時期から販路元として食肉生産とかかわりがあったようです。
南村(南野村の前身、のちの末広町)の人びとは南村第二屠牛会社を設立し、1873年(明治6)滋賀県を通して京都府下での販売を出願し、精肉の販売を試みました。その後、屠畜の取り締まりが厳しくなったため公営の屠場をつくることとなり、1889年(明治22)武佐村営屠畜場が設立されました。以上のことから、肉牛の仕入れと精肉、滋賀・京都方面での販売を先んじて始めたのが、武佐(南野)と考えられます。
一方、肉牛の肥育と東京での宣伝・普及に貢献したのが、山之上村の特に「米九」を浅草で開いた竹中久次です。山之上村には明治11年に牛馬商がおり、東京で牛肉の需要が高まるのを契機に三丹(丹波・但馬)で仕入れた牛をそのまま神戸港から汽船で東京に運んでいました。1890年(明治23年)東海道線の開通に伴い、八幡駅から神戸へ生牛(生きた牛)の輸送が始まりました。このとき、山之上では仕入れた仔牛を濃厚飼料で食肉用に飼育していました。竹中久次は1887年(明治20年)東京府下で屠殺条例が改正されると、屠殺場の設置をいち早く申請しました。
近江牛の名が一躍広まったのは明治25年です。牛疫が大流行し生牛の輸送が禁じられ、検査済の精肉が鉄道で東京に輸送されることになると、(出港先から)神戸牛と認識していた良質の牛肉が、滋賀県の八幡駅からの出荷であることが認知されたためです。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『近江八幡の歴史』(近江八幡市)
- 『近江八幡の部落史』『近江八幡の部落史―くらしとしごと』(近江八幡市)
- 『近江牛物語』瀧川昌宏/著(サンライズ出版)
- 『屠場文化』(創土社)『竜王町史下』
- 『近江牛歴史』中村薫/著
- キーワード
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- 近江牛
- 近江八幡
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 近江八幡 郷土 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000229105