・讃岐松平藩士由緒録 井下香泉/訳・編 高松大学出版会 2002.3
p.143 に後藤主膳に関する項があり、関係のありそうな記述あり。
「・・・後藤主膳は晩年に権威の奢りから主君や領民のことを配慮せず、「不忠至極の頭取」と批判され没落の運命を辿った。この後藤主膳は通称久明、玄蕃閑応とも号した。享保中期旅篭町(現中野町と中央町境)に藩邸を構えていた。寛延元年(1748)嗣子久充死去により家絶え、その邸跡に恵公の個室、常久院様屋敷となるも宝暦4年(1754)空屋敷となる。」
・香川県史 3 通史編 近世1 香川県/編 四国新聞社 1989
p.260-262「「大浪人」と後藤主膳」という項がありますが、出身地や出身地の屋敷跡、墓地や子孫に関する記述は見当たらなかった。
また、ネットに次のページをあり。
「香川の古城址一覧」
http://www.marinenet.co.jp/koala/oyakoala/oldc/oldc6.htm「34 後藤城 綾歌郡綾上町山田上田頃乙(俊則) 後藤岩(石)見守資盛 城主の後藤岩見守資盛は藤原中納言家の12世孫でこの後藤山に拠ったところから後藤姓を名乗った。その後後藤氏は羽床氏に従い、羽床七人衆の一人に数えられた。戦国期には資家、国資、資冶と続き、次ぎの資堅に至って一帯の領地を失ったが資堅の孫資正が高松藩に出仕、その子政之介(後藤主膳久明)は取り立てられて藩家老になり1500石を領した。城跡は山田小学校真南の小山(俊則の城山(標高100m)であるらしい(『讃岐の城跡』)。『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』では公民館東側の丘陵先端(標高108m)の位置にあり城跡の東を綾川が流れ城下橋がかかっている」
この中で紹介されている、次の2点の資料の内容も確認しましたが、
後藤主膳久明本人の出身地や出身地の屋敷跡、
墓地や子孫に関する記述は見当たらなかった。
・讃岐の城跡 藤堂久行/著 藤堂久行 1991.8
→p.148に後藤城の説明有。
・香川県中世城館跡詳細分布調査報告 平成14年度 香川県教育委員会/編 香川県教育委員会 2003.3
→p.251に後藤城の説明有。
ここまでの調査で先祖は綾上町にゆかりがあることが判明したので、下記資料を確認。
・綾上町誌 綾歌郡綾上町教育委員会/編 綾上町 1978.3
→p.82-85「後藤石見守とその後裔」に関係のありそうな記述あり。
「・・・延亨元年(1744)10月3日、後藤玄蕃、病を得て引篭る。藩公はその後継の絶えることを憐れんで、大森八左衛門の嫡孫、孫蔵を養子にするよう命じた。養子となり、閑応の嗣となった孫蔵は名を主殿久充と改め、大夫となった。玄蕃久明が歿したのは、その月の16日であった。
大森八左衛門は明暦7年6月歿す、実名忠政といい、剛直勇敢の人であったという。
人名辞書によると、東照公及び威公に歴仕し、頼重が讃岐へ封ぜられて以来家老となり、禄千石を給せられていたというから、松平家直参の身分であった。後藤家はその嫡孫によって継がれたのである。」
それ以外に下記の資料も見ましたが、参考になる記述は発見できなかった。
・香川県人物・人名事典 四国新聞社/編 四国新聞社 1985
・讃岐人名辞書 復刻讃岐叢書 梶原竹軒/著 藤田書店 1973.9
・香川県人物・人材情報リスト 2002 日外アソシエーツ/編 日外アソシエーツ
2002.1
(参考)
「高松歴史こぼれ話(高松市歴史資料館)」のページより
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/monosiri/yomoyama/yomoyama01/yomoyama01.htm#name06
「高松藩の出世頭・後藤主膳
江戸時代,武士の子は武士,町人の子は町人というように,生まれでその将来はほぼ決まっていた。武士も多くの層に分かれていて,普通,下級武士の家に生まれた者は,上級武士になることができない。が,なかには異例の出世を遂げる人がいた。柳沢吉保(1658~1714)や,田沼意次(1719~88)がその代表であろう。
高松松平藩でもこのような事例がある。三代藩主頼豊(1680~1735)の時代に,家臣の最高位・大老にまでのぼりつめた後藤主膳(しゅぜん)である。主膳は頼豊が二代藩主頼常(1652~1704)の世子となる以前,7歳で頼豊の御側に召し出された。親の伝長(伝七)は三人扶持十五俵の武士で,決して高くない身分であった。
その伝七の次男・主膳の出世物語は,宝永元年(1704)頼豊が藩主となってから始まり,最終的には藩のナンバー2の大老に駆け登ったのである。
ただし,評判はさほどよくない。飢饉により困窮した多くの農民が城下に集まっているのを見た頼豊は,何故かと尋ねたところ,主膳は, 豊年につき御礼に来ていると答え,藩主の機嫌を取り持ち,結果として民の恨みをかったと小神野夜話(おがのやわ)という書物は伝えている。」