当館には「高松藩登仕録」は所蔵しておりません。
・さぬきと楠公 日下利春/編著 南海不動産研究所出版部 1993.11
に
「第2章 讃岐高松藩登仕録」
という章がありますが、記事の内容に三木家に関するものは含まれていませんでし
た。
なお、文中に「・・・松平家に蔵する『登仕録』に依って、その情況を知ることがで
きる・・・」
という文章がありましたので
松平公益会で何かわかるかもしれません。
(ただ、どのくらい一般からの質問に公益会が対応しているのかは
こちらは把握できておりませんのでご注意ください。)
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○讃岐高松と鉄砲 占部日出明/著 占部日出明 2004.10
→この資料にはいくつか関連する記述があったので
該当部分をご紹介します。
P.19 「6)高松藩の鉄砲行政(幕末以前)」の項に次の記述があります。
「・・・また、高松藩は貞亨5年に幕領の金刀比羅宮に当時鉄砲奉行をしていたと思
われる三木半太夫と松井嘉右衛門より70挺の鉄砲が神納されている。・・・」
p.35 「表 高松藩での砲術流派対照年表」に
「時代:1650 慶安3年 高松藩:外記流(三木家)」という部分があります。
「鉄砲に関係する高松藩士<讃岐高松藩士由緒録の抜粋:化政時代に藩士の家譜を記
録したもの>」の項の
p.86に次の記述があります。
三木半助:元祖半太郎は慶安3年(1650)百俵五人扶持鉄砲奉行。その子弥太郎郎
(ママ)家督百俵、その子半太夫五十俵四人扶持奥横目、その子半助養子中寄。
三木半太夫→弥太郎→半太郎→半助→良助→半之助
p.89「6 高松藩の砲術家」の項に次の記述があります。
【外記流】
三木家:外記流の祖井上外記正継はもと那須流と一とする。三木家はもと敏達帝より
出、三十九代に従四位下紀伊守高長当国三木郡平木城主となる。時に長宗我部元親に
敗れ遺族播州美嚢郡三木荘に逃れ、後年安門の代に再び讃岐に来藩祖松平頼重に仕え
井上流砲術指南となり、子孫鉄砲師役、鉄砲奉行となる。良助嘉猛は特に秀で炮烙と
なる。遠町打、早打、舟打、異風五十目台打、合図火は往来火、天来火等の妙技に通
じ流祖外記の秘伝口決聞書等の自写百余巻に及ぶ。
三木半太夫安門→弥太郎嘉武→半太郎嘉利→伝之助嘉任→弾蔵嘉保
→良助嘉猛→弾蔵嘉献
なお、この資料の奥付に
著者の連絡先が掲載されているので
お伝えしておきます。
(省略)
○鉄砲の歴史と讃岐の古式銃砲 岩部忠夫/著 岩部忠夫 1989
→三木家に関する記述はありませんでした。
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高松市歴史資料館ホームページの
「高松藩士由緒録」のコーナーに
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/siryou/yuisyo/kakukou/mi21.htm
次の記述があります。
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三木半助
元祖半太夫,慶安3年(1650)十石三人扶持鉄砲薬込のちに百俵五人扶持鉄砲
奉行となる。初め早水弥惣左衛門という。
その子弥太郎,家督百俵となる。
その子半太夫,家督三十俵四人扶持惣領組のちに五十俵四人扶持奥横目となる。
その子半助・養子佐久間治左衛門の子,三十俵四人扶持惣領組のちに中寄合となる。
三木弥兵衛
先祖弥兵衛,元祖半太夫の三男,元禄5年(1692)御山小姓のちに三十俵四人
扶持大納戸となる。
その子弥兵衛。
その子弥兵衛,三十俵四人扶持十俵役料留守居番組与頭,のちに中寄合となる。
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以下の香川県関係の人物事典では
三木家、あるいは三木半太夫に関する記述は見つかりませんでした。
・香川県大百科事典 四国新聞社出版委員会/編 四国新聞社 1984
・香川県人物・人名事典 四国新聞社/編 四国新聞社 1985
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当館には内容をご紹介した
○讃岐高松と鉄砲 占部日出明/著 占部日出明 2004.10
より詳しい資料はなさそうです。