次の案内板の文面は、
・「善住木食上人の入定塔 昭和50年10月」
次の当館所蔵の記述を要約したものに近いと思われる。
・満濃町史 満濃町役場 昭和50年4月刊
※p.1208「善住木食上人の入定塔」の項あり。次の記述あり。
「 大字公文の公文山の富熊神社の裏に、善住木食上人の入定塔がある。この塔は、明治三年十月十六日にこの地で入定寂滅した善住木食上人を偲んで、信徒たちの手で建立されたものである。
善住木食上人は、寛政八年三月十一日に丹後国宮津に生まれ、姓は松浦氏であったと伝えられている。少年のころから武を好み、十四歳で家を出て、江戸・京都・大阪で武術を学び、荒々しい生活を送った。二十四歳の時、発心して仏門に入ろうと思い、讃岐の金毘羅大権現に詣で、<神仏の教えを体得して多くの人を助け、神人不二の境地に達すること>を神前に誓った。
それから阿波の箸蔵寺に赴き、ここで仏門に入って名を源心と改め、高野山の高坂坊・大和の金剛山などで五穀を断って修行に努め、各国の霊場を巡拝した。四度目の四国霊場巡拝の旅で江戸深川霊連寺の泰山和尚の知遇を得、共に霊場巡拝を続けて霊連寺に入り、泰山和尚から灌頂を受けた。
その後四国に渡り、金毘羅大権現の神前で、<神仏の像千体を刻むこと>を発願し、<人家に宿せず、火食しない>誓いを立てて四国の霊場を巡拝し、各地で神仏や仏像を刻んでこれを神社・仏閣や篤志家に寄進した。その後、白峰時に錫(しゃく)をとどめて名を善住と改め、根香寺に近い南条峰に小庵を営んだ。以後、遠くは紀州の那智山や志摩の海で荒行を行い、庵にあっては、高松藩大久保一学の依頼を受けて、根香寺の北にある「じょうが淵」で雨を祈って法力を示した。三十八歳の冬、南条峰の石室に入って入定を試みたが果たさず、高野山に移って更に修行を続けた。
高野におること五年、ひたすら五穀を断って山野に臥し、厳しい修行を続けて木食上人と称せられるようになった。四十三歳の春、備前岡山の帰命院の住職として迎えられ、やがて丸亀藩主の帰依を得て那珂郡の公文の地に移り、嘉永三年の春、松ヶ鼻に護摩堂を建てて毎日毎朝、水垢離(ごり)を取ってひたすら仏像を刻み続けた。
善住の護摩堂は金毘羅街道の傍らにあって、堂内に善住の刻んだ仏像が所狭しと並べられていたので、参詣客の立ち寄ることが多かった。善住はこの人々に茶を接待し、乞いに任せて祈祷を行い、人々に尊信された。特に川辺村の竹下・金山村の都崎両氏などの深い帰依を受けたので境内も次第に整備され、以後二十年間、この護摩堂を中心に教えを説いた。
明治三年の春、善住は護摩堂の後方の山の上の地を選んで入定しようとしたが、盗賊に妨げられて果たさず、同年秋、再び入定を決意してその業にはいった。五穀を断って蕎麦を常食としていた善住は、その蕎麦をも断ち、水を飲みながらひたすら経文を唱えて身体の衰弱をはかり、次第に水の量を減じて一物をも食わず、一滴も飲まない状態を続け、身体の衰弱するのを待って入定室(この山に多かった横穴古墳の石室)に入り、鐘を振り経文を唱えて死を迎えようとしたのである。各地から多くの帰依者が駆けつけて入定室の近くに仮の通夜堂を設け、善住の振る鐘の音に耳を傾けながら、経文を唱える善住の声に和してしめやかに経文を唱え続けた。入定室からの鐘の音と経文の声は日が経つにつれて次第に低くなり、幽かになって、遂に十月十六日、ぽつりと絶えてしまった。帰依者の人々は善住の徳を偲びながら入定室を閉じた。善住の死は、高野の大師そのままの見事な入定寂滅の最期であったと伝えられている。
明治三年十月といえば、廃仏棄釈の暴挙が各地で行われていたころである。金比羅大権現の称号が改められ、境内の一隅で仏像や仏具が焼き払われ、本尊仏であった十一面観音と不動明王の二体だけが、官に願って漸く残されるという時代であった。記録によって明らかにするということはできないが、善住は政府の仏教抑圧の政策に反対し、廃仏棄釈の風潮に抗議する意味を籠め、仏教者としての意地をこの入定によって表したのではないだろうか。
(後略)」