レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年10月18日
- 登録日時
- 2013/10/18 13:35
- 更新日時
- 2013/10/18 13:42
- 管理番号
- 20131018-3
- 質問
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解決
荻生徂徠について知りたい。
- 回答
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荻生徂徠(おぎゅうそらい) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0/ (2013/10/18確認)
(1666―1728)
江戸中期の儒学者。幼名は双松(なべまつ)、字(あざな)は茂卿(もけい)、通称は惣右衛門(そうえもん)、号が徂徠である。荻生氏の本姓は物部(もののべ)氏と伝えられ、中国風の一字の姓として、物(ぶつ)茂卿とも署名した。先祖は三河(みかわ)または伊勢(いせ)の武士で、祖父の代から医師となり、父方庵(ほうあん)は徳川綱吉(当時は館林(たてばやし)藩主)の侍医であった。徂徠は寛文(かんぶん)6年2月16日に江戸で生まれたが、14歳のとき、父が綱吉の怒りに触れて江戸から追放され、一家は母の郷里である上総(かずさ)国長柄(ながら)郡本納(ほんのう)村(現千葉県茂原(もばら)市)に移った。ここで農村の不自由な生活を体験し、また乏しい書籍を熟読して勉学したことが、徂徠の学問の基礎となった。25歳(一説では27歳)のころ、父が赦免されて一家は江戸に帰り、徂徠は芝の増上寺(ぞうじょうじ)の付近で私塾を開いたが、やがてその学力を認められて、31歳の1696年(元禄9)から柳沢吉保(よしやす)に仕え、将軍綱吉にも接近する機会をもつようになった。・・・
参考文献
『荻生徂徠全集』全20巻(1973~ ・みすず書房)
『日本思想大系36 荻生徂徠』(1973・岩波書店)
『日本の名著16 荻生徂徠』(1974・中央公論社)
岩橋遵成著『徂徠研究』(1934・関書院)
吉川幸次郎著『仁斎・徂徠・宣長』(1975・岩波書店)
荻生徂徠 【おぎゅう-そらい】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0 (2013/10/18確認)
世界大百科事典 第2版
おぎゅうそらい【荻生徂徠】 1666‐1728(寛文6‐享保13)
江戸の元禄・享保期の大儒。名は双松,字は茂卿,通称は惣右衛門,徂徠は号。将軍徳川綱吉の侍医荻生方庵の次男として江戸に出生。14歳のとき江戸払いに処された父に従い家族とともに上総国本納(母方在所)に移住。以後足かけ12年間を辛苦のうちに田舎で過ごす。《四書大全》などを読み大内流軍学を外祖父から学ぶ。のち許されて江戸に戻り舌耕生活を送る。1696年(元禄9)柳沢保明(のち吉保)に仕える。藩公用日誌の編纂,将軍綱吉から保明に預けられた小姓衆の教育に従事。・・・
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
荻生徂徠 おぎゅう-そらい
1666-1728 江戸時代前期-中期の儒者。
寛文6年2月16日生まれ。荻生方庵の次男。父の蟄居(ちっきょ)により25歳まで上総(かずさ)(千葉県)ですごす。三河物部氏を先祖とし,修姓して物(ぶつ)とも称す。元禄(げんろく)3年江戸にもどり,のち柳沢吉保につかえる。朱子学から出発しながらそれをこえる古文辞学を提唱。茅場町に蘐園(けんえん)塾をひらき,太宰(だざい)春台,服部南郭らおおくの逸材を出した。また8代将軍徳川吉宗に「政談」を提出するなど,現実の政治にもかかわった。享保(きょうほう)13年1月19日死去。63歳。江戸出身。名は双松(なべまつ)。字(あざな)は茂卿。通称は惣右衛門。別号に蘐園。著作に「訳文筌蹄」「論語徴」「弁道」「弁名」など。
【格言など】炒り豆をかじりながら,古今の人物を罵るは,最大の快事なり
おぎゅうそらい【荻生徂徠】 国史大辞典
一六六六 - 一七二八
江戸時代中期の儒学者。名は雙松、字は茂卿、通称は惣右衛門。徂徠(また徂来)・蘐園・損庵・赤城翁と号した。もと三河の物部氏から出たので姓を修めて物とした。祖父の代から医となり、父の方庵は館林侯(のちの将軍徳川綱吉)の侍医を勤めた。徂徠は寛文六年(一六六六)二月十六日(月・日には異説がある)に、江戸の館林藩邸で生まれた。一兄・一姉があり、母は旗本、児島助左衛門の女であった。八歳のとき、弟の北渓が生まれた。彼はのちに幕府の儒官となった。延宝七年(一六七九、十四歳)四月、父が事に坐して上総国長柄郡本納村に蟄居。以後、元禄三年(一六九〇、二十五歳)に赦されて江戸に帰るまで、一家は流落の生活を送った。この間、徂徠は乏しい書籍を精読し、学問の根底を培った。長兄を本納村の医者として残留させ、一家が江戸に帰ったのち、父の後は弟に嗣がせ、徂徠は芝増上寺門前に住み、程朱の学を講じたが、貧窮を極め、豆腐のからを食べて辛うじて生きたという逸話がある。しかしこの間に『訳文筌蹄』六巻を著わし、邦語で同訓の字の区別(たとえば「しずか」と訓ずる字「閑」「静」等々の区別)を、三百四十九項、二千四百三十四字について解説した。これが文名を天下に知られるに至った最初の著書である。同九年八月、増上寺了也大僧正の推挙によって柳沢侯(吉保)に召し抱えられ、将軍徳川綱吉にもしばしば講義するようになり、ついには五百石の禄を食むまでになった。服部南郭・安藤東野・三浦竹渓ら、柳沢侯の臣下が徂徠の門に入ったのは、この因縁による。この間、伝えられるところによると、某氏の蔵書を庫ごと買い取るため、畳まで売り払って支弁したという。・・・
[参考文献]
太宰春台「郡山故記室荻生先生墓誌銘」(『事実文編』三一所収)、板倉勝明「徂徠荻生先生伝」(同所収)、銭梅渓「徂徠伝」(同所収)、原念斎『先哲叢談』六、岩橋遵成『徂徠研究』、丸山真男『日本政治思想史研究』、金谷治『荻生徂徠集』解説(『日本の思想』一二)、吉川幸次郎他『荻生徂徠』解説(『日本思想大系』三六)、吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本思想 (121 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 荻生徂徠 おぎゅうそらい
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000139128