レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年12月27日
- 登録日時
- 2013/12/27 13:17
- 更新日時
- 2013/12/27 14:19
- 管理番号
- 049
- 質問
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解決
明治初年に尼崎城が廃城となったのちの、跡地利用の変遷を調べたい。
- 回答
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明治6年(1873)、政府は全国の城を対象に廃城命令を出します。尼崎城も、この命令により廃城となりました。
その後、本丸跡には小学校が設置され、変遷を経てのちに尼崎第一尋常小学校となります(現明城小学校)。さらに旧尼崎城下の都市化、土地需要の増大により、明治前半期にはすでに一部の濠の埋め立てが始まります。明治後期には北側の外濠が埋め立てられ、六島新田という名称の住宅地開発が行なわれました。
明治45年、官有地(国有地)であった本丸旧濠の払い下げを受け、学校用地の拡充や役場の敷地にあてる計画が尼崎町議会で決議され、大正期半ば以降に徐々に埋め立て工事が行なわれていきます。小学校内に設置された裁縫科を改組して大正2年(1913)に設立された町立実科高等女学校(大正5年に市立となり、大正8年に尼崎高等女学校となる)の拡充用地や、大正5年の市制施行ののち大正11年に竣工した新市庁舎の用地などに、この埋め立て地があてられました。
大正15年には数次にわたる濠埋め立て工事が完了し、尼崎城の痕跡はほぼ完全に消滅。こうして、町役場(市役所)や郵便局、警察署、学校といった公共施設が集まり、その南側を東西に商店街が横切り官設鉄道の尼崎支線が乗り入れるという、明治~昭和戦前期の旧尼崎城下の景観が形作られていきました。
こういった経過を、「尼崎町(尼崎市)事務報告書」「尼崎町会(市会)会議録」といった歴史的公文書や各年代の地形図・市街地図・航空写真、「御大典紀年献上 尼崎市写真帖」(大正5年)や学校記念誌等の文献により、確認することができます。
- 回答プロセス
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1 尼崎城跡利用、濠の払い下げと埋め立てなどを記録した歴史的公文書
◆「尼崎町(尼崎市)事務報告書」
町・市当局が、町会・市会に対して年間事務を報告するため毎年作成した報告書。
各年の該当項目を参照することで、濠の埋め立て工事の進ちょくなどを確認することができる。
◆「尼崎町会(市会)会議録」
「明治四十五年町会成議録」に、同年議会における濠埋め立て計画の決議と、それをめぐる審議の様子が記録されている。
2 尼崎城跡利用、濠埋め立ての様子を視覚的に確認できる史料
◆地形図・市街地図等
もっとも発行時期が早いのは、地形図が明治18年(仮製地形図)、市街地図が明治42年(酒見泉金堂・吉原文栄堂発行)。これ以降の様子を各年代の地形図・市街地図類により確認できる。
◆航空写真
昭和3年(1928)撮影航空写真(大阪市所蔵、地域研究史料館複製所蔵) 濠埋め立てが終了した段階の状況を確認することができる。
◆「御大典紀年献上 尼崎市写真帖」(大正5年)ほか、史料館所蔵写真史料・絵はがき類
さまざまな年代の尼崎城跡地の様子を確認することができる。
3 参考文献
◆学校記念誌・卒業記念写真帳等
城内小学校(尼崎第一尋常小学校)及び尼崎高等女学校、高等女学校の後身である市立尼崎高等学校の記念誌や卒業記念写真帳等の刊行物に、城跡地を利用した学校の敷地変遷や設立・拡充経緯、各年代の写真などが掲載されている。
◆『評伝六島誠之助』
六島新田の開発に関する記事と写真が掲載されている。
◆『図説尼崎の歴史』/Web版『図説尼崎の歴史』近代編
尼崎城廃城と、その後の旧城下の都市化、土地利用の様子などを各項目において解説しており、前記の地図・写真類の一部も掲載している。
また第3節4「都市問題の発生」(島田克彦執筆)に「尼崎城濠の埋め立てと天平さん」という囲み記事を掲載し、明治45年の町会における濠埋め立て計画審議の様子を解説している。
4 濠埋め立て経緯説明のデジタルコンテンツ
◆「尼崎城の濠と近代」
地域研究史料館が作成したパワーポイントデータ及び解説テキストデータ。1~3の一連の素材画像を時系列化したスライドショーに、解説を加えている。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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- 「尼崎町(尼崎市)事務報告書」「尼崎町会(市会)会議録」 (尼崎市立地域研究史料館所蔵歴史的公文書)
- 『図説尼崎の歴史』下巻 2007年 (当館請求記号 219/A/ア)
- 「尼崎城の濠と近代」(デジタルコンテンツ) (当館請求記号 デジタル画像B180)
- キーワード
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- 尼崎城
- 濠
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000142497