猿啄城の古地図については、詳しいものではないが『美濃雑事紀』(文化13年序文)の「勝山古城」の項に城周辺の略図が掲載されている。水源については明記されていないが、城に至る道を示すと思われる点線沿いに「水ノ手」との記載がある(大衆書房による復刻版『美濃明細記 美濃雑事紀』(1969年刊)p.401~402を参照)。
なお、同じ図は『猿啄城史』(坂保町教育委員会,1981年刊)にも掲載されており、これが城郭やその規模を示す唯一のものとされている(p.14~19)
古地図ではないが、『岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第3集』(岐阜県教育委員会,2004年刊)には、現在の地図上で猿啄城の曲輪跡等を示している。解説の文章では「山上の主郭南西には字「水之手」があるが、付近に『信長公記』に言う「水の手」が存在していたのであろうか。」との記載がある(p.100~101)。
また、『坂祝町史 通史編』(坂祝町,2005年刊)にはp.81~86にかけて猿啄城に関する記載があり、城下町に関する節で「昭和16年(1941)の『坂祝町土地法典』には「城ヶ洞」「水の手」「内町」等の小字名が載っている」とある(「土地法典」は原文ママ。「土地宝典」の誤記か)。この『坂祝町土地法典(宝典)』は当館では所蔵しておらず、現物を確認することはできなかった。