倉敷矢部片岡山にあった神社。神社跡地には巨石が立ち並び、線刻のある石がご神体とされている。この様子は『楯築遺跡』で見ることができる。『都窪郡誌』に掲載されている「縁起書」によれば巨石には火籏根、馬盥石、馬立石、矢隠石、矢落石などの呼称があり、ご神体は白頂馬竜神と称されたとする。『楯築弥生墳丘墓の研究』によれば、1909(明治42)年鯉喰神社に合祀、社殿は解体されたが、ご神体は故あって1916(大正5)年に当地に戻された。ご神体は地元では「亀石」、考古学研究者では「弧帯石」と呼ばれており、弥生時代のものである。神社の記録は江戸前期にさかのぼる。『庄村誌』によれば神社中興の建立に関する文書が残っており、それに基づけば初めは西山宮であったが、天和年間に社殿を造営した際、伝承にちなんで楯築神社に改名したとし、「縁起書」もこの頃に作製されたと推定している。祭神は片岡多計留命(たけるのみこと)で、神社の地はその墳墓とみなされていた。この片岡多計留命は吉備津彦命の鬼神退治に関わったとされ、日畑西山の産土神としている。片岡山の地名はこの祭神の名前による。江戸中期の『備中集成志』によれば吉備津彦命鬼ノ城鬼神退治の時に楯築は岩をもって楯としたため楯築大明神としたとし、神体は石にて色々の異形の人形を彫った物としている。江戸末期の『備中誌』にも記事があり、近年になって「平石の青く三尺計り有るに足の形の付たるを何れの地よりか捜し出し是を神体とせり」とし、「石はいかにも奇と云へけれ」と書き残している。