レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年09月12日
- 登録日時
- 2013/09/12 20:43
- 更新日時
- 2013/09/12 20:58
- 管理番号
- 20130912-5
- 質問
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解決
馮玉祥について知りたい。
- 回答
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馮玉祥 【ふうぎょくしょう】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E9%A6%AE%E7%8E%89%E7%A5%A5 (2013/09/12確認)
世界大百科事典 第2版
ふうぎょくしょう【馮玉祥 Féng Yù xiáng】 1882‐1948
中国の軍閥。字は煥章。安徽省巣県の人。貧農の家に生まれたが,苦学力行してついには一時最高権力を手中にした。辛亥革命時,大隊長だった彼は革命軍に呼応せんとして失敗,妻の養父に助けられたが,民国時代に順調に勢力をのばし,1924年の第2次奉直戦後には国民軍総司令となって北京をおさえた。馮玉祥の力の源泉は,軍閥の常としての権謀に加えて,兵士の信頼と時流に対する敏感さにあった。彼は部下と同じ生活をして団結をかため,帝制,復辟,武力統一に反対したばかりでなく,清朝の廃帝を紫禁城から追放して辛亥革命にひとつの結末をつけたのである。
馮玉祥(ふうぎょくしょう) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%A6%AE%E7%8E%89%E7%A5%A5%EF%BC%88%E3%81%B5%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%8F%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89/ (2013/09/12確認)
[現地読み:フォンユイシヤン]
(1882―1948)
中国の軍閥政治家。「ひょうぎょくしょう」とも読まれる。安徽(あんき)省出身。民主化の方向を志向し、クリスチャン将軍とよばれた。初めは段祺瑞(だんきずい)(安徽派)に従い、のち直隷(ちょくれい)派に接近、1924年10月、北京(ペキン)で突如兵変を起こし、自ら国民軍と称して直隷派の曹(そうこん)を追い、一時、北方の実権を握った。1926年、国民党に入って西北国民軍総司令となった。1928年北伐に呼応して奉天軍を追い、国民党中央執行委員となったが、1930年には反蒋介石(しょうかいせき)運動を展開し失敗して除名された。抗日戦争中は復党し、重慶(じゅうけい)にあって蒋介石のもとで軍事委員長に任じた。しかし蒋のファッショ化には反対した。1946年外遊してアメリカで反蒋声明を発表、1949年人民政治協商会議に参加するため、当時のソ連経由で帰国の途中、黒海で乗っていた船の火災のため死去した。
ふうぎょくしょう【馮玉祥】 国史大辞典
Fêng Yü-hsiang
前項目次項目
一八八二 - 一九四八
中国、西北軍閥の領袖、国民党系の進歩的将軍。クリスチャン=ゼネラルとも呼ばれ、対ソ接近外交でも有名。原名、基善、字、煥章。一八八二年生まれる。安徽省巣県の人であるが、生まれたのは直隷省青県。父は職工から兵士となった人。玉祥は、十一歳で清軍に入り、辛亥革命後一九一四年旅団長、二一年師団長、二二年河南督軍と出世。二四年、国民軍を組織して対ソ接近。二六年モスクワに赴いた際国民党に入党。北伐の時には第二集団軍を組織して蒋介石に協力したが、二九年以後は蒋の独裁に反対して反蒋行動を継続。三三年にはチャハルにおいて抗日同盟軍を組織。日中戦争中は第三から第六戦区司令を歴任。戦後再び蒋と対立してアメリカに追われ、四八年九月一日、ソ連に赴く途中黒海で乗船火災のため事故死した。六十七歳。軍閥でありながら中国共産党によっても評価され、五三年には泰山に陵園が建てられた。妻は李徳全。
[参考文献]
高興亜『馮玉祥将軍』
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 中国 (222 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 政治史.事情 (312 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 馮玉祥 ふうぎょくしょう ひょうぎょくしょう
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000137063