レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016/1/8
- 登録日時
- 2016/01/09 00:30
- 更新日時
- 2016/01/09 00:30
- 管理番号
- 滋2015-0040
- 質問
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解決
江戸時代、多くの近江商人が日本橋に店をだしているが、その理由を知りたい。
- 回答
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『近江商人ものしり帖 改訂版』によると、「徳川家康が江戸幕府を開いた直後の慶長八年(一六〇三)に江戸に日本橋が作られ、東海道をはじめとする五街道の起点となりました。それ以降、急速に諸国の人々の往来で賑わい、近辺には高札場、魚河岸、米河岸、材木河岸などが並び、人・情報・物資の集積が絶えず、それに伴って商工業が一段と発達し、日本経済の中心となっていきます。大都市江戸の流通を担当したのは、徳川家本拠の三河や伊勢の商人、産物を持ち下ってきた近江商人などで、江戸のまちづくりに大きく貢献した近江商人(八幡商人)には、掘留という一等地が与えられました。現在、堀は埋め立てられ、日本橋もその名残を示す表示だけとなりましたが、「ふとんの西川」で知られる西川甚五郎家や伴伝兵衛家は、江戸幕府成立の頃から江戸で店を構え、現在の中央通りには、畳表問屋の伴荘右衛門家や、近江屋伝右衛門、呉服商の白木屋(初代大村彦太郎)なども店舗を構えました。当時、堀留・富沢町に隣接する大伝馬町に伊勢商人をはじめ木綿産地からの商品を取り扱う問屋が多く集まっていたのは、木綿の物流は船舶による輸送が便利だったからです。堀留川と緑川に挟まれた堀留・富沢町は吉原繁華街にも近く、富沢町は、日本橋の魚河岸、神田の野菜市と並び称された古着市(現代風にいえば既製服のせり市)が開かれ、商人にとっては格好の立地条件でした。堀留・富沢町界隈は、さまざまな好条件を満たしていたことから、呉服・木綿をはじめとする繊維関係の卸商の近江商人が「八幡の大店」と称された店舗を連ねるようになったのです。」とあります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 商業史.事情 (672 8版)
- 参考資料
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- 1 近江商人ものしり帖 渕上清二∥著 三方よし研究所 2008年 S-6700- 08 p.52
- キーワード
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- 近江商人
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 団体
- 登録番号
- 1000186886