レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009年8月13日
- 登録日時
- 2010/02/12 13:25
- 更新日時
- 2010/03/20 16:20
- 管理番号
- 岩手-0031
- 質問
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解決
森鴎外の紀行文『後北游日乗』に明治15年10月9日「盛岡六日町なる斉藤という家に着きぬ」と出てくるが当時、盛岡六日町に斉藤という旅館はあったのか。
- 回答
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盛岡市の近代史を調べると、盛岡六日町 斉藤定興(権次郎)が旅館をやっていたという資料を見ることができる。
斉藤旅館は、江戸時代には盛岡藩の御仮屋の管理人を務め、維新後も盛岡一の高級旅館として、高官名士が行き来する際には皆ここを利用する宿であったことが、資料には書かれている。
・『盛岡市史 第六分冊 明治期上』 盛岡市史編纂委員会/編 盛岡市 1962年 p.289
「同年(明治4)11月7日、盛岡市中の宿屋二人のものを指定して、総宿取締としている。当時市中の宿屋数は不明であるが、指定された二軒の旅館は代表的なものであろう。 往来宿 藤田武左衛門 宿屋 斎藤権次郎 (中略)斎藤屋は市内六日町と伝えられている」
・『図説盛岡四百年下』 吉田義昭・及川和哉/共編著 郷土文化研究会 1991年 p.318
「盛岡の郵便仮役所は六日町(今の肴町)の斉藤定興宅に置かれた。斉藤宅は当時宿屋だったといわれている」
・『盛岡明治大正昭和「事始め百話」』 吉田義昭/著 郷土文化研究会 1995年 p.12
「盛岡の郵便発祥の地は、現在の肴町二番地内の場所で、旧町名でいえば、六日町の奥州街道筋にあった斉藤という旅籠屋であった。そこの主人、斉藤定興という人が郵便御用の事務を委託されたのであった。明治6年4月辞令では駅逓寮等外一等格の発令で、明治11年9月まで任用されている。初代局長となった定興(旧姓古川、聟養子。幼名権次郎)はどんな経歴の人だったろうか。斉藤家は昔から六日町で参勤御用の本陣[御仮宿]の管理人で、一方では城下町内の治安取締り役にあたる[検断]職の家柄であった」
・『岩手県姓氏歴史人物大辞典』 角川書店 1998年 p.176「斉藤定興(さいとうていこう)」
「十七、八歳の時盛岡藩の御用達万屋庄八方に見習奉公、次いで宿屋斉藤小右衛門方に奉公した。この斉藤旅館は六日町にあり、検断を務め、御仮屋の管理も兼ねていた。(中略)斉藤旅館は維新後も盛岡一の高級旅館として続いた」
・『齋籐定興伝』 遊佐徳弥/著 【新渡戸文庫 請求記号:新28-58】
「維新後御仮屋の名称は無論廃止となって、其の建物は町役場に充てられた。齋籐家は以前宿屋営業を継続して居たが、盛岡唯一の高等旅館として、高官名士の南北に来往する者は、皆こゝに宿ったのであるから、其の繁栄また昔時に幾倍して有った」
ただし、森鴎外の紀行文『後北游日乗』に記された宿が、斉藤定興の旅館であったという確証までは得られなかった。
- 回答プロセス
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1、『岩手県の地名』で「盛岡市六日町」を調べる
六日町:[現]盛岡市肴町・下ノ橋町・清水町
この付近の歴史や盛岡明治期の古地図を調査⇒手掛かりなし
2、盛岡市の近代史を調査(キーワード:旅館、六日町、斉藤)
『盛岡市史 第六分冊 明治期上』に六日町で旅館を営む「斎藤権次郎」の名前を確認。
3、斎藤権次郎について調査
『岩手県姓氏歴史人物大辞典』の「斉藤定興」の項目に「幼名権次郎」とあり。六日町で旅館を営んでいたことが書かれている。
- 事前調査事項
- NDC
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- 商業史.事情 (672 9版)
- 東北地方 (212 9版)
- 日記.書簡.紀行 (915 9版)
- 参考資料
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『盛岡市史 第六分冊 明治期上』 盛岡市史編纂委員会/編 盛岡市役所 1962年
- 『図説盛岡四百年 下』 吉田義昭・及川和哉/共編著 郷土文化研究会 1991年
- 『盛岡明治大正昭和「事始め百話」』 吉田義昭/著 郷土文化研究会 1995年
- 『岩手県姓氏歴史人物大辞典』 角川書店 1998年 (p.176「斉藤定興(さいとうていこう)」)
- 『齋籐定興伝』 遊佐徳弥/著 (新渡戸文庫)
- 『岩手県の地名(日本歴史地名大系3)』 平凡社 1990年
- 『鴎外全集 第35巻』 森林太郎/著 岩波書店 1975年
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『盛岡市史 第六分冊 明治期上』 盛岡市史編纂委員会/編 盛岡市役所 1962年
- キーワード
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- 旅館
- 旅籠
- 宿
- 斉藤
- 盛岡六日町
- 後北游日乗
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000063154