レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/07/05
- 登録日時
- 2012/03/22 02:01
- 更新日時
- 2023/08/21 13:00
- 管理番号
- 6000004785
- 質問
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解決
豊中市玉井町3丁目の豊中グラウンド跡地、高校野球メモリアルパーク(高校野球発祥の地)について書かれた本はあるか。
- 回答
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『とよなか歴史・文化財ガイドブック』『新修豊中市史』などに、高校野球発祥の地である豊中運動場についての記載がある。
- 回答プロセス
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『とよなか歴史・文化財ガイドブック』(豊中市教育委員会)p23「高校野球・ラグビー発祥の地 豊中運動場記念パーク」に、豊中運動場で大正4年(1915)に第1回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)が開催されたことと、現在の様子・写真が簡単に紹介されている。豊中運動場は大正2年(1913年)5月に、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)によって開設され、同年6月・10月に「日米大学野球戦」、「日本オリンピック大会」という大きなイベントが行われた。10月には豊中停留場が新設され、面積約1万坪、観覧席は800人の収容が可能で、「日本一のグラウンド」とも謳われたとのこと。大正7年(1918年)には「第1回日本フートボール優勝大会」(現在の全国高校ラグビー大会)が行われ、また隣接するテニスコートとともに学校連合の行事等にも使用されたが、運営会社の方針により大正時代末に住宅地に変更されたと記載がある。
『大阪近代史話 増補改訂』(東方出版)p120-121「中等学校野球と豊中球場」には、箕面有馬電気軌道が乗客誘致のため住宅開発やレクリエーション施設建設に力を入れ、豊中グランドもそのひとつであったこと、折りしも野球に対する人気がそれまでの相撲をしのぐほどに高まったことから全国中等学校優勝野球大会が計画されたことなどの記載がある。グランドの様子について、広さは約1万9800平米、周囲に赤レンガ塀をめぐらし、1塁・3塁側に700~800名収容の15段木製スタンドがあり、外野は低いレンガ塀の内側を土盛りにして見物席とし、フィールドは芝生ではなかったが、それでも当時としては日本一を誇るものであった、と記されている。第1回大会・第2回大会についても簡単な記述があり、当時は完全な権威ある野球規則がなく、委員を選出し11ヶ条の規則を審議して適用したとのこと。大会は日増しに人気を呼んだが、鉄道の車両や本数が少なく試合終了後の乗客をさばききれなかったため、阪神電鉄の作った鳴尾球場が第3回大会を誘致、その後甲子園球場が誕生したとある。昭和63年の高校野球メモリアルパーク(豊中運動場記念パーク)建設にもふれている。
『大阪府の歴史散歩 大阪市・豊能・三島 上』(山川出版社)p150「高校野球メモリアルパーク」にも、同パークの写真と、第1回全国中等学校優勝野球大会等の簡単な説明、大会移転の経緯等があり。野球規則は大正5年(1916)の第2回大会に合わせて完成したことも書かれている。
『野球場大事典』(大空社)p37-38「全国中等学校優勝大会(全国高等学校野球選手権大会)と球場」には、豊中球場正門の写真と、豊中球場にはグラウンドに1周400mのトラックが作られたので長方形に近く、右翼に比べ中堅と左翼が広かったこと、当時は主催者が滞在費を出さなかったため、会期を短くするため2球場がほしいという要望に応え、鳴尾競馬場トラック内の1周800m・直線400mの球場内に2つの野球場を作って大会を誘致したことの記載がある。
『新修豊中市史 第2巻 通史2』(豊中市)p276-277「『蛍ケ池新グラウンド』と豊中停留所新設」には、運動場開設時の米国・スタンフォード大学と慶應義塾大学の対抗試合を報じた大阪朝日新聞の記事の紹介があり、豊中グラウンドの様子を記した部分を詳しく引用している。現在の豊中駅周辺の開発計画として、約10万坪の土地を買収・造営し、グラウンド造成・学生の寄宿舎建設・郊外住宅地造成を行い駅を建設するというものだったとの記述もある。p277-280「全国優勝野球大会の開催」には、中等学校野球大会のほか、サッカー場としても利用されたことや、日本フートボール優勝大会(ラグビーフットボールと、現在のサッカーに当たるアソシエイションフットボールの合同大会)についても記載がある。
『新修豊中市史 第9巻 集落・都市』(豊中市)p155「鉄道敷設と人口増加」には、阪急電鉄の鉄道経営の特徴は沿線の郊外住宅地の開発と観光事業開拓の2点に要約でき、大正2年の豊中運動場6,000坪の開設は後者に当たる、豊中運動場が建設されたのはそこに鉄道があったからにほかならないとの記載あり。
『新修豊中市史 第11巻 社会教育』(豊中市)p58-70「都市化の社会教育への影響」には、職住分離で余暇にも恵まれた新中間層を対象に箕面有馬電気軌道が箕面公園・動物園や宝塚レジャーランドを開発して沿線居住のメリットを高め、また豊中市は大阪市までの所要時間が15~20分の自然が多く土地が安い文教地区として発展したなどの記述がある。p66には豊中グラウンドへの言及や写真もある。またp420-421「戦前期の身体運動と社会体育」には、大正時代後期の1920年代になると大阪などの大都市は、欧米から輸入したスポーツに高等教育機関の中で親しみ、さらに卒業後も続けることができる経済力を持った「エリート」選手たちを支えることができ、その中で朝日新聞と毎日新聞の販売競争により主催・後援されたスポーツ大会の代表的なものが全国中等学校優勝野球大会であった、との記載あり。その後この大会は甲子園に移ったが、これに限らず新聞の大衆化と1930年代の緩やかなラジオの普及を通じてスポーツ愛好の意識は拡大したとのこと。ただし、多くの一般都市住民にとってはスポーツは「見る娯楽」であり、農村部では小学校での運動会や「村相撲」が一般的であった、とも記載されている。
『新修豊中市史 第8巻 社会経済』(豊中市)p482-483「箕面有馬電気軌道の開業」には、豊中運動場(豊中グラウンド)建設の経緯等のほか、「日本オリンピック大会」に関する新聞記事の紹介もある。また豊中運動場廃止の経緯として、阪急電鉄が新しい大運動場を宝塚新温泉前に建設して、豊中運動場を廃して運動遊楽一切の設備を宝塚に集中する方針をとったとの記述あり。
『豊嶋文化 第1号~第5号』(豊中郷土文化研究会)第3号p18-19に、関西最初のスポーツ記者となった田村木国氏による「高校野球を生んだ豊中」という記事があり、豊中グラウンドができた際に阪急の事業部の担当者と朝日新聞社の田村氏の会話から第一回全国中等学校優勝野球大会が開かれたいきさつについて記載がある。
『とよなかの史跡巡り』(瀧健三)p45-46「豊中駅付近-大正期」には、この頃の豊中駅付近の様子の聞き書きがある。
『豊中の史跡・余話』(瀧健三)p59-61「高校野球メモリアルパーク」には、豊中グランド跡地の写真と全国中等学校優勝野球大会・日本フートボール優勝大会の豊中での開催とその後の経緯、平成14年に阪急豊中駅前に建立された全国高校ラグビー大会発祥の地記念碑の紹介などがある。
『豊中の史跡たずね描き』(豊中市教育研究所)p58「全国中等学校野球選手権発祥地」には、昭和52年時点のスケッチと、説明板の文言の転記あり。
『図説 北摂の歴史』(郷土出版社)p214-215「鉄道の開発と新市街地の誕生」には、大正3年の豊中駅付近の開発(大運動場含む)について記載がある。p220-221「高校野球発祥の地」には、綿畑の中に作られた豊中グラウンドや、当時の野球の様子について詳しい。写真あり。
『ふるさとの想い出 明治・大正・昭和 豊中』(国書刊行会)p140「スポーツあれこれ」にも、豊中グラウンドや中等野球の写真がある。
なお、後日発行された『阪急沿線謎解き散歩』(中経出版)p245-247「豊中駅 高校生の汗と涙 スポーツ大会発祥の地」、および『懐かしい沿線写真で訪ねる 阪急宝塚線・能勢電鉄 街と駅の1世紀』(彩流社)p26-27にも、豊中運動場の歴史や豊中駅前の昔の写真等が載っている。
『野球を歩く 日本野球の歴史探訪』(草思社)p143-168「高校野球とタイガースの聖地、甲子園球場に刻まれた歴史」には、主に甲子園球場のことが書かれているが、一部に豊中グラウンドの歴史や2013年時点の豊中グラウンド跡地の様子、第1回大会始球式の際のエピソードなどもある。
豊中市のサイトの「高校野球発祥の地」(https://www.city.toyonaka.osaka.jp/joho/shoukai/gaiyou/baseball.html)、「高校ラグビー・サッカー発祥の地」(https://www.city.toyonaka.osaka.jp/joho/shoukai/gaiyou/ichiban/ragubi.html)にも、豊中グラウンドについての情報が載っている。
(Webサイト確認:2023年8月21日)
- 事前調査事項
- NDC
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- 球技 (783 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 高校野球(コウコウ ヤキュウ)
- 豊中(トヨナカ)
- 野球(ヤキュウ)
- 史跡(シセキ)
- 高校野球メモリアルパーク
- スポーツ(スポーツ)
- 歴史(レキシ)
- 大正(タイショウ)
- 豊中グラウンド
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000104082