大東という呼称については尾花清氏が「『大東』考素描‐『東方大国』としての『大東』を軸に」(大東文化大学人文科学研究所 研究部会)で以下のように指摘されています。
「大東」ということばは『詩経』で「遠い東」という意味に使われていました(『詩経』「小雅」の中の「谷風之什器(こくふうのじふ)」に「大東」があります(『詩経(新釈漢文大系111) 中巻』374-382頁 当館所蔵【928/1N/111】)。ヨミは「だいとう」ではなく「たいとう」です)。
その後、朝鮮半島を統一した新羅が自らを称する際に「中国の東にある国」という意味で「東国」を用いていましたが、15世紀半ばに朝鮮王朝の第4代世宗が作らせた『龍飛御天歌』で「東方大国」を意味する「大東」ということばが初めて登場し、朝鮮王朝の全時期を通じて「大東」が使われたといいます。
したがって、朝鮮王朝期に刊行された朝鮮の地図に「大東」という言葉が使われています(仰っておられた「大東の地図」とは「大東與地図」のことかと思われます。金正浩が1861年に刊行したものです)。
こうした事情は近世の日本の儒者においても周知のもので、日本側の儒者にも朝鮮に対し「大東」とよんでいた者もいたといいます。
なお、「大東」の意味を「日本」に転換したのは荻生徂徠とのことです。徂徠は朝鮮半島の朱子学を亜流として否定していたために「大東」と称するに足るには「日本」であると考え、富士山を題材した漢詩に「大東」という言葉を使っています(『徂徠集』巻之五:「大東の邦」の出典に『徂徠集』をご紹介しています)。
こうして「大東=日本」が定着していったということです。
この文章はインターネットで読むことができます。
http://www.daito.ac.jp/research/laboratory/humanity/section/detail07.html 大東亜共栄圏については、『国史大辞典』(国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1987.10)によると「大東亜共栄圏」は1940(昭和15)年8月1日の松岡洋右外務大臣による外交方針で、「皇道の大精神に則り、先ず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図る」ことで、この時に「大東亜共栄圏」という呼称がはじめて公式に用いられたということです(8巻 802頁)。
なお、この共栄圏の範囲は仏印・蘭印を含む東亜の安定圏ということです。したがって、「大東」「亜」ではなく、「大」「東亜」です。この「東亜」は、『日本国語大辞典』(小学館 2001.9)によると「アジア州の東部。中国・日本・朝鮮などの総称。極東」とあります(9巻 897頁)。
※朝鮮の「大東の地図」について
当館では『大東與地図』(草風館 1994.9)【292.1/32N】と『大東與地図』(韓国での発行 1956.9)【TK292/39】があります。
非常に大きな地図ですので、『大東與地図』(草風館 1994.9)は1枚が1冊の本に、『大東與地図』(韓国での発行 1956.9)【TK292/39】は1枚を22枚の地図に分割して刊行しています。