(1)『玉島風土記』(資料①)には、「玉島駅ができたのは明治24年7月14日のことでした。」とある。また、玉島駅が置かれた場所については「当時の玉島はまだ港で栄えていたので、港とのかかわりで生計を立てている人も多く、鉄道がついて汽車が通ったら、玉島港がさびれると、港に近く駅を作ることに、猛反対しました。また岡蒸気は五平太(石炭)をたくから、悪臭を出すとか、黒いすすをまきちらしたり、火事をおこしたりするとか、家の壁が落ちたり、屋根瓦が落ちるとか、にわとりが卵をうまなくなるなどといってがんこに反対したのです。とうとう鉄道は玉島を通らず、となりの長尾村を通り、駅名だけは玉島駅と名づけられました。」という記載がある。
新倉敷駅については「昭和45年、岡山-博多間398キロの山陽新幹線建設工事がはじまり、玉島駅は新倉敷駅と改稱されました。新倉敷駅は玉島の表玄関となり、昭和50年3月10日、新幹線の“ひかり都市”の仲間入りをした玉島の人々は新幹線がもたらすメリットをフルに利用しようと、駅周辺を整備してその面目を一新しました。駐車場が増設され、大型店舗が進出し、高層ホテルも出現しました。」とある。
(2)『ぼっこう玉島』(資料②)の「新倉敷駅(玉島駅)」の項目では、「玉島駅」の簡単な由来が記載されている。また、「新倉敷駅」という駅名になった経緯について、「昭和50年3月10日、山陽新幹線博多開業により、玉島駅名について公聴会が開かれ、玉島駅として存続すべきか、倉敷駅とすべきか、論議があったが、結局、新しい倉敷を全国的に知ってもらうためには新倉敷がよかろうということになり明治24年から続いた玉島駅を惜しまれながら変えることになった。変わる日の前日には、玉島駅に別れを告げる人々が、玉島駅名の入った入場券を並んで買う風景がみられた。」と記述がある。
なお、新聞名や日付は記載されていないが、「きょう“米寿”迎える 新倉敷駅 開業時、乗客は186人(1日平均)」と題した新聞記事も掲載されている。
(3)『新修倉敷市史 7 現代』(資料③)には、「山陽新幹線の開通と新倉敷駅」と題して、「新幹線構想」にはじまり、「県内の新幹線工事」、「玉島駅から新倉敷駅へ」、「新倉敷駅周辺の整備」といった新倉敷駅が開業するまでの経緯について詳細な記載がある。
特に、新幹線が倉敷を通過するルートには複数案があったことや、山陽新幹線倉敷駅設置期成会の発足、倉敷市議会の「新幹線駅設置への協力」の決議を経て、玉島駅の位置に新倉敷駅の設置が決定されたことなど、資料①~②では記載されていないことが記述されている。
なお、「玉島駅」という駅名であった昭和49年から、平成9年までの新倉敷駅の乗車人員の推移も記載されている。
(4)『岡山の駅舎』(資料④)にも、新倉敷駅の項目に、簡単な由来が記載されている。