・倉敷駅ができたのは明治24年(1891)4月 ―「伸び行く倉敷」倉敷市教員組 1952年刊 本年末、戸数一六八八戸、人口七〇六四人であった。(一八九〇)三月、郵便局が郵便電信局と改まった。電信が開始された。六月、町制が施行され、倉敷村は倉敷町となった。四月、山陽鉄道が倉敷まで敷設され、倉敷駅が開設された。七月、倉敷銀行が設立された。一一月、高等精思小学校々舎が栄町通りに新築された。(一八九一)(明治二四) ・山陽鉄道について さんようてつどう 山陽鉄道 国鉄山陽本線の前身にあたる私有鉄道会社。1886年(明治19)兵庫県の石田寛之助、小西新左衛門や灘の酒造業者が神戸―姫路間の鉄道建設を計画し、児島湾干拓の藤田伝三郎ら16人で願書を出したが、政府は政治・軍事上の幹線として下関までの延長を指令して許可した。1888年(明治21)三菱の岩崎久弥ら三菱系と大阪資本からなる山陽鉄道(株)が発足。同年兵庫―姫路間53■が開通したが、以後は工事が遅れ、1890年(明治23)船坂トンネルまで、翌年3月三石―岡山間、同9月岡山―福山間、同11月福山―尾道間、1894年(明治27)6月広島まで開通し、2軸横扉の客車と荷物車の混成7両列車が1日15本、昼間だけの単線運行を行った。岡山県内ルートでは西大寺、玉島の港町などで鉄道通過反対運動があり、やむなくこれらの市街地をはずした北よりのルートに鉄道を敷設、結果的に西大寺や玉島は時代の波から取り残されていった。広島まで開通の直後に日清戦争があり、山陽鉄道は重要な役割を果たした。1894年に全国最初の急行列車(神戸―広島間8時間56分)を走らせ、炭水車つきテンダー機関車を導入して列車編成および走行距離を大きくし、1895?1897年(明治28?30)には広島―大阪、広島―京都の直通列車も運転して官営鉄道の東海道本線にくい込んだ。1898年(明治31)には車内電灯をつけ、1899年に食堂車増結など官営鉄道にさきがけるサービスをした。これは阪神―岡山―高松間の航路および官営鉄道に対抗する競争であった。1901年(明治34)に下関までの全線が開通、1905年の営業キロ数は565■、輸送旅客数は年間1246万人、貨物は年間149万■となった。日清戦争後の不況ので私鉄の経営難が生じたとき、山陽鉄道は讃岐鉄道など2社を合併し、さらに四国連絡航路を設け、宇野線建設計画も立てたが、1906年(明治39)「鉄道国有法」が制定され、国に買収されて国営鉄道となった。→山陽本線→新幹線 /由比浜省吾 山陽鉄道開通時の岡山駅構内の図『岡山県新地理書』より