レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2006年03月29日
- 登録日時
- 2006/04/04 08:22
- 更新日時
- 2017/05/16 12:29
- 管理番号
- 6130
- 質問
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久保無二三という人物が高松の栗林公園の設立に尽力したらしいが、そのことについて書かれた資料はあるか?
- 回答
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○全国諸藩剣豪人名事典 間島勲/著 新人物往来社 1996.3
p.140に「久保無二三(1830-1897)」の項に
「名は秀景」、「維新後は名東県に出仕し」
という記載がありますので
久保無二三と久保秀景は同一人物ではないかと思われます。
○栗林公園 藤田勝重/著 学苑社 1974.5
p.46-47に次のような内容の記述があった。
・「高松栗林公園碑記」の裏面に「建碑の挙、久保秀景これが首唱をなす、・・・(以下略)・・・」
・「往者防人久保秀景来たりて吾が讃高松に在り、庁員課長たり。時に栗林荘将に廃堕に往かんとするを憂い、諸官に請うて、挙げて以って公園となす。・・・(以下略)・・・」
・「当時長州人久保秀景君名東県高松支庁長たり。時に有志の者等と相謀りて栗林公園を設く。・・・(以下略)・・・」
・「・・・久保秀景は山口県人で、当時名東県の高松支庁長として讃岐高松に在職し、本園の設置を首唱してこれを実現したる上建碑についてもこれを首唱し、三条実美に近かった関係でその篆額を得たことが判る。・・・(以下略)・・・」
また、p.49に太政大臣三条実美から篆額の揮毫を得ることが当時容易ではなかったのだが実現した理由として
次のような内容の記述があった。
「・・・これが実現したのは本園の設置及び建碑の首唱者であった久保秀景が山口県人で、三条公と特に近く同公が七卿の一人として維新前(文久3年)長州に落ち、筑前まで難を避けたとき、久保秀景がこれに従い苦辛を共にした関係で、その寵を得ていたによるものであることは前記の通りで、三条公からこの地に篆額を得たことは当時として全く異例の大事であったろう。」
○マイクロ内閣文庫所蔵府県資料 愛媛県6(マイクロフィルム)
に次の記述があった。
「大属附典事」の項に
「山口県士族 久保秀景
明治5年11月20日
任名東県典事
明治6年8月17日
任名東県大属
名東県参事従六位久保断三奉」
とある。
*
それ以外に次の資料を確認したが
○讃岐の名園紀行 栗林・玉藻編 長岡公/編 長岡公 1990
○特別名勝栗林公園 香川県栗林公園観光事務所/編 香川県栗林公園観光事務所 2000.5
○栗林公園 藤田勝重/著 学苑社 1974.5
○日本の庭園美 10 栗林園 集英社 1989.7
○造園史 特別名勝栗林公園 中西勉/編 美巧社 2004.4
”明治6年1月15日の「公園に関する太政官布告」をうけ、
明治7年5月に名東県権令久保断三から、内務省に栗林荘を公園としたい旨申請し、
明治8年3月3日に認可され、同3月16日、栗林公園として一般公開された"
という内容以上のことは見当たらなかった。
- 回答プロセス
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最初、久保無二三という名前で調べていたが、見つからない。
久保無二三が山口出身ということは利用者から聞いていた。
そこで、
山口県立図書館 ふるさと文献情報検索
http://library.pref.yamaguchi.lg.jp/sys/form/furusatoM.htm
で、久保無二三について記述のある資料が何点か判明し、
そのうちの一つで当館に所蔵のあった「全国諸藩剣豪人名事典」で
久保無二三と久保秀景が同一人物らしいことが判明し、関連した資料を紹介できた。
- 事前調査事項
- NDC
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- 造園 (629)
- 参考資料
- キーワード
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- 久保秀景
- 久保無二三
- 栗林公園
- 金石・金石文
- 記念碑
- 香川県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000028216