①『岡山県大百科事典』(山陽新聞社発行)や『岡山県史』(岡山県発行)、『岡山市史』(岡山市発行)を確認するが記載がない。『岡山市百年史 下巻』によると、博覧会についての記載があるが、岡山商工協会主催、昭和7年4月に東山を会場にして「観光振興の観念を助長し産業の振作に寄与せんが為」開かれたということしかわからない。
②インターネットの検索エンジンGoogleで「岡山観光博覧会」をキーワード検索すると、株式会社乃村工藝社のHPにある、「博覧会資料」がヒットする。それによると、会期は昭和7年(1932)4月1日~1932年5月10日であったことがわかる。
③②をもとに『中国民報』昭和7年(1932)4月1日朝刊を確認すると、博覧会は昭和7年(1932)4月1日から40日間の会期で、総予算は20万円に足らず、会場は東山公園(現在の岡山市中区東山)で、本館、南館、観光館、パノラマ館、迎賓館、水族館、文化館、北海道館、満蒙館などがあったことがわかる。記事には、「岡山商工協会に於ては池田光政公二百五十年を記念し併而本邦観光地の連絡と産業の興進を図る為陽春四月の候を期し観光博覧会を当市に開催せらる」や、「規模は小さいが出品は粒撰りだ」などの記述がある。会場の地図や建物の写真などのほか、当時の岡山県知事であった篠原英太郎氏をはじめとする博覧会の役員(5名)の顔写真も掲載されている。
④『中国民報』昭和7年(1932)4月1日夕刊(欄外には4月2日と記載)を確認すると、岡山観光博覧会の開会式の記事が掲載されている。博覧会を「備前藩組二百五十年記念祭奉賛岡山観光博覧会」と称している。開会式には2,000余名の招待者が参列し、その中には小川郷太郎や大原孫三郎らがいたことがわかる。博覧会本館入口や開会式場の写真が掲載されている。
⑤『山陽新報』昭和7年(1932)4月1日夕刊(欄外には4月2日と記載)にも、④と同様の記事がある。
⑥『山陽新報』昭和7年(1932)4月6日朝刊によると、観光館に陳列された、北海道、朝鮮、台湾、那覇、奈良、松江、京都、鳥取などの名所写真や模型などは入場者の目を引いたとことがわかる。また、「開館以来戦勝気分の入場者は引も切らず所謂花の三、四両日は各四万人の入場を算し」との記述がある。
⑦『山陽新報』 昭和7年(1932)4月15日朝刊によると、「蓋明けされて既に十余日を過ぎた今日、今迄の人出状態や一般の評判は余りかんばしくないものがある」との記述がある。そのほか、博覧会は総建坪986坪、特設館260坪、小間数700という規模で、国内3府26県のほか、国外からと合わせて約65,000点の出品があったことがわかる。
⑧当時の博覧会の絵葉書には、会場や展示の様子の写真が掲載されている。