レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年04月04日
- 登録日時
- 2012/10/31 16:36
- 更新日時
- 2013/01/22 11:23
- 管理番号
- 埼久-2012-082
- 質問
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解決
足尾銅山の経営に携わった古河鉱業会社は大正6年11月に3つの会社に分離したとされているが 『足尾銅山史』(随想舎 2006)によると、大正7年に分離したとされている。どちらの年代が正しいのかを知りたい。 『国史大辞典』を見ると、また年代に相違がある。
『足尾銅山鉱毒事件関係資料 』(東京大学出版会 2009)に記載があるかどうかの確認とその他に該当する資料があるか知りたい。
- 回答
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当館所蔵資料では以下の2点に1917年(大正6年)に分離と記述されている。大正7年とある資料は見つからなかった。
『日本における企業の分離・独立の研究 古河グループの電機エレクトロニクス企業の事例を中心として』(岡本久吉著 東京リーガルマインド 2010)
p261に図「古河コンツェルンの形成」あり。1917年(大正6年)に「3社分立」とあり。
p290に図「古河グループの生成・発展図」あり。1917年(大正6年)に3社+1銀行に分社とあり。
この両図によると、会社の変遷は次のとおり。
1911年(明治44年)創業の古河合名会社は1917年(大正6年)に3社分立し、(名)古河鉱業会社、古河商事(株)、(持)古河合名会社となる。
さらに(名)古河鉱業会社は1918年(大正7年)に古河鉱業(株)となっている。
『日本コンツェルン全書9 浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』(春秋社 1937)p283に同様の記述あり。
また『足尾銅山鉱毒事件関係資料5』は、明治30年に設けられた足尾鉱毒事件調査委員(会)資料と明治35年に設置された鉱毒調査委員会関係の資料が所収されており、記載内容から今回の事案には当てはまらない。また同書にある「全巻掲載資料一覧」からも大正時代の記録はなし。『同書 14』には創業者の古河市兵衛の名前が散見され、「古河市兵衛借区沿革」などがあるが明治期の資料のみ。
参考資料として以下を提供した。
『日本産銅業史』(武田晴人著 東京大学出版会 1987)
p198 「表112 金属鉱業者別生産価額」の説明のなかに、古河は1917年より古河鉱業(株)など法人化等による名称の変更がある」と記述されている。
『足尾銅山史』でも引用されている『創業100年史』(古河鉱業 1976)に会社の分離に関する詳細な年表あり。
- 回答プロセス
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質問の出典である『足尾銅山史』を確認する。
別冊資料の索引より、〈古河商事〉の該当部分本編p375を見ると、「大正6年11月古河合名会社は合名会社古河鉱業会社に改称し、その営業部門を分離独立して古河商事株式会社とし、また新たに持株会社の古河合名会社を設立、三社分立を実現(中略)。合名古河鉱業会社は翌7年古河鉱業株式会社を設立(後略)」とある。大正7年に分離とは記述がない。
『国史大辞典 12』p359〈古河鉱業会社〉を見ると1917年前後の「3社分立」の記述はない。 ただ古河鉱業株式会社の記述に、大正9年(1920)4月に横浜電線製造と合併して古河電気工業を設立とあり。この記述により年代に相違がある、と思われたのではないか。
以下の資料には該当なし。
『富士・三和・第一(古河・川崎)コンツェルン、その歴史と今後の動向』(朝日出版社 1970)
『日本銅鉱業史の研究』(小葉田淳著 思文閣出版 1993)
『足尾銅山物語』(小野崎敏著 新樹社 2007)
『小説古河市兵衛』(永野芳宣著 中央公論新社 2003)
- 事前調査事項
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「大正ニュース事典」 「足尾銅山1969-1988」「足尾鉱毒事件・秩父事件への旅路」記載なし。
- NDC
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- 各種の金属鉱床.採掘 (562 9版)
- 企業.経営 (335 9版)
- 参考資料
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『日本における企業の分離・独立の研究 古河グループの電機エレクトロニクス企業の事例を中心として』(岡本久吉著 東京リーガルマインド 2010)
- 『日本コンツェルン全書9 浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』(春秋社 1937)
- 『創業100年史』(古河鉱業 1976)
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『日本産銅業史』(武田晴人著 東京大学出版会 1987)
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『日本における企業の分離・独立の研究 古河グループの電機エレクトロニクス企業の事例を中心として』(岡本久吉著 東京リーガルマインド 2010)
- キーワード
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- 古河鉱業
- 古河 市兵衛(フルカワ イチベエ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000113225