以下の資料を紹介した。
●図書資料
(1)『「戦争と平和」市民の記録 4 戦いの中の青春』日本図書センター 1992年
p139~141 私達は生産体当たり 昭和十九年十二月六日付 読売新聞記事より
藤井少尉の妹である節子さんを中心に、銃後特攻隊を結成した、という内容。妹の自宅住所、家族の名前、少尉の手紙の一文などあり。
(2)『浦和市史 第4巻 3 近代史料編』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1982年
p278 (浦和中学校『教務日誌』昭和二十年度)
七月五日(木曇)始業前会議一、特攻隊ノ藤井信大尉ノ霊前二生徒代表二参拝サス件 との一文あり。
(3)『陸軍特別攻撃隊 上巻』高木 俊朗/著 文芸春秋
p446 大本営発表の八紘隊の戦果の中に藤井信の名があります。藤井信についての記述はないが、八紘隊の実際について当時現地にいた東京日日・大阪毎日新聞社の設楽敏雄記者が書いた話がある。
(4)『鎮魂 特別攻撃隊の遺書』原勝洋/編著 KKベストセラーズ 2007年
p121~122 十一月二十七日出撃 の中に藤井信の名がある。戦果等はあるが、藤井信についての詳しい情報はなし。
(5)『陸軍と海軍 陸海軍将校史の研究』山口宗之/著 清文堂 2005年
p247~ 陸軍士官学校出身特攻戦死者の分析 の氏名一覧の表(期・階級・氏名・年齢・突入年月日・場所・備考)の中
p251に藤井信の名がある。備考欄にKD(仙)とあり、仙台幼年学校出身ということを指している。
次の資料はさいたま市図書館で所蔵していないため、内容は確認していないが、google booksで検索してヒットしたもの。
(6)『山紫に水清き 仙台陸軍幼年学校史』松下芳男/著 仙幼会 1973年
p922に「藤井信は、フィリッピン作戦において、レイテ湾上の特攻八統飛行隊員として、戦死したのである。」と出ているよう。
●朝日新聞と読売新聞のデータベースで検索したところ、次の新聞記事に藤井信の名前あり。
【1】朝日新聞 1944年11月30日
「八紘隊」の10神鷲出撃 藤井信少尉(会津若松市出身)
少尉の特攻前の言葉が載っている。
【2】朝日新聞 1944年12月20日
「体当り15神鷲特進の誉れ 八紘隊、震天制空隊員ら 論功行賞の御沙汰」
【3】朝日新聞 1944年12月22日
「感状上聞に達す 特攻八紘隊の10神鷲 10機克く10艦船を屠る」
【4】読売新聞 1944年12月6日
「私達は生産体当り」
『「戦争と平和」市民の記録 4 戦いの中の青春』に掲載されていたものと同じ内容の記事。
新聞記事の方には藤井少尉の妹がうつった写真が載っている。
【5】読売新聞 1944年12月22日
「感状上聞の栄 10機10隻屠る 10神鷲の略歴」
●埼玉新聞に次の見出しあり。
①1944年11月30日 1面
「十機で十艦船轟沈破 特攻隊八綋隊レイテ湾に出撃 御期待に副う覚悟 前線からの手紙に貯金と遺髪 浦和出身 兄弟思いの藤井少尉 “幸せな子です” 今頃は父の手に抱かれて 母堂の話」
②1945年7月5日 1面
「燦たり四軍神 軍人援護会総裁宮殿化下より 八日 輝く賞賜品伝達」
③1945年7月11日 2面
「郷土に生きる神鷲 第十回藤井信大尉 並はずれの大きな子 “捨てなければ呪われる”の迷信を一蹴 天下無敵の暴れ者は育つ 蜂の巣に仇討 所謂“大器晩成型” 一度発奮すればぐんぐん上がる成績 初陣に参加できず無念さにあふる大酒」
④1945年7月18日 2面
「余栄輝く神鷲 知事ら賞賜品伝達慰問」
⑤1945年8月11日 1面
「郷土が生んだ 特攻隊勇士を描く」
※上記の記事は、埼玉新聞見出し検索システムで藤井信の名前で調査したもの。中央図書館では新聞を所蔵していないため、内容は未確認。