レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/10/26
- 登録日時
- 2015/12/02 00:30
- 更新日時
- 2024/03/30 00:37
- 管理番号
- M15022315070249
- 質問
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餅会陽について知りたい。
- 回答
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(1)『岡山県大百科事典』(全2巻,岡山 山陽新聞社,1980年)を確認するが、該当の記載はない。
(2)岡山県立図書館電子図書館システム「デジタル岡山大百科」の「郷土情報ネットワーク」にて「餅会陽」もしくは「もち会陽」をキーワードにして検索すると、下記の資料がヒットする。
・『おかやま』(1968年3月,岡山県広報協会発行)の記事「力もち会陽-英田町-」(資料①)によると、「英田郡英田町尾谷にある顕密寺の“もち会陽”は鎌倉初期から行なわれ、九百年の古い伝統をもっている。明治の初めごろ、中断されたことはあったが、昭和30年からふたたびさかんに行なわれるようになった。旧正月三日の大護摩祈祷が終るのを待ちかまえて、力自慢の若者たちが百三十キロもある大鏡もちを三宝ごと抱えて歩くコンクールが行なわれる。」とある。会陽に使う大鏡餅をつくる様子や、コンクールで餅を抱えて歩く様子など、9枚の写真が掲載されている。
・『英田町史』(資料②)には、顕密寺の会陽を「五大力餅会陽」として、下記のとおり、記載がある。
「これは二斗の上餅(直径80センチ重量53キロ)三斗の下餅(直径90センチ重量81キロ)の大餅を、1メートル四方の頑丈な三方に乗せ縄でしばる。総重量は180キロになる。それを法被(はっぴ)を着て鉢巻きを締めた力自慢の若者が抱え上げ、歩いてその距離の長さを競う。また子供たちのために53キロの餅を抱え上げて、持ち続けた時間の長さを競う行事も行われる。現在は2月の第一日曜日が会陽とされている。」
・『グラフおかやま』(1986年3月,岡山県広報協会発行)の記事「力もち大集合 -英田町顕密寺・五大力餅会陽-」(資料③)にも、「五大力餅会陽」について、下記のとおり説明がある。
「五大力餅というのは、五大力明王(5つの仏)にお供えする餅という意味で、男(陽)と男が会い集まって力くらべをするために「会陽」と呼ばれている。始まりは承久3年(1221)後鳥羽上皇が隠岐に流された時と古く、その後しばらく途絶えていたものが、昭和30年に復活された。」
そのほか、参加者が大きな餅をかかえて歩く様子や子供会陽についても記載がある。
・『岡山民俗』(1963年1月,岡山民俗学会発行)の記事「顯密寺の五大力餅会陽」(資料④)にも、会陽の様子が記載されている。
(3)『岡山歳時記』(資料⑤)、『祭礼行事 岡山県』(資料⑥)、『岡山の祭りと行事 上巻』(資料⑦)といった、民俗関係の郷土関係図書でも、餅会陽の簡単な解説を確認できる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 年中行事.祭礼 (386 9版)
- 参考資料
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①「力もち会陽-英田町-」『おかやま』第138号,1968.3,p.51-53.
②英田町史編纂委員会『英田町史』英田町(英田郡) 英田町,1996,540p. 参照はp.79.
③「力もち大集合 -英田町顕密寺・五大力餅会陽-」『グラフおかやま』第30巻第3号,1986.3,p.22-23.
④横山捷彦「顯密寺の五大力餅会陽」『岡山民俗』第53号,1963.1,p.3-4.
⑤吉岡三平『岡山歳時記』岡山 日本文教出版,1966,203p. 参照はp.16-17.
⑥高橋秀雄『祭礼行事 岡山県』おうふう,1995,143p. 参照はp.8,114.
⑦岡山民俗学会ほか『岡山の祭りと行事 上巻』岡山 山陽新聞社,1982,287p. 参照はp.85.
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①「力もち会陽-英田町-」『おかやま』第138号,1968.3,p.51-53.
- キーワード
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- 餅会陽
- 五大力餅会陽
- 顕密寺
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- M2015022315025270249
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 全年齢
- 登録番号
- 1000184845