レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20161029
- 登録日時
- 2017/03/16 00:30
- 更新日時
- 2020/06/24 17:55
- 管理番号
- 中央-2016-27
- 質問
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解決
都立中央図書館特別文庫室で所蔵している「御本丸御白書院御庭御鞠垣絵図(ごほんまるおしろしょいんおにわおまりがきえず)」に書かれている蹴鞠(けまり)の準備の記録に町人9名の名前があるが、江戸城での蹴鞠の準備を町人が手伝っていたのか。
- 回答
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都立中央図書館特別文庫室の東京誌料で所蔵している「御本丸御白書院御庭御鞠垣絵図」(請求記号:6168-6)(https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000002-00006768 最終確認日:2017年2月23日)は、1710(宝永7)年の4月5日に江戸城で行われた将軍の蹴鞠上覧の記録である。
準備の過程の記述に「町人」の記載はなく、蹴鞠当日の記述に蹴鞠道の家元である飛鳥井(あすかい)、難波(なんば)両家の名称と並んで「町人九名」と記載されている。
さらに、都立DBを<蹴鞠>のキーワードで検索し、資料1、2を調査した。
資料1のp.65-68によると、江戸時代には公家・武家だけではなく、町方(町人)にも蹴鞠が広まっていた。
江戸時代の蹴鞠は、飛鳥井家と難波家を頂点とする家元制度の下で行われ、町人や百姓も門弟として入門していた。
門弟の中には、末端の門弟と家元を繋ぐ「鞠目代(まりもくだい)」や「鞠取次(まりとりつぎ)」と呼ばれる中間教授層があり、町人の鞠目代が将軍の蹴鞠の上覧に出場した記録が紹介されている。
資料2は、p.133の記述から、町人が飛鳥井家の門弟となっていたことが読み取れるが、町人と江戸城における蹴鞠の関わりについての記述は見つからなかった。
また、「CiNii Articles」(国立情報学研究所)(https://ci.nii.ac.jp/ 最終検索日:2020年4月14日)を<蹴鞠>のフリーワードで検索したところ、『放送大学研究年報』17巻(放送大学/編 / 放送大学 , 1999)所収の論文「近世蹴鞠道飛鳥井家の一年」の情報を得た(当館未所蔵。「放送大学機関リポジトリ(ManapiO)」(http://id.nii.ac.jp/1146/00007411/ 最終検索日:2020年4月13日)により閲覧。)。
p.162(77)-143(96)によると、図面に記載のあった町人の1人である「宮西市右衛門」が宝永7年の将軍の蹴鞠の上覧に出場したとある。
以上により、町人9名は準備を手伝ったのではなく、蹴鞠に参加したと思われる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 社会.家庭生活の習俗 (384 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】蹴鞠 / 渡辺融/監修 / 霞会館 , 2015 <D/384.8/5017/2015>
- 【資料2】日本の蹴鞠 / 池修/著 / 光村推古書院 , 2014 <384.8/5015/2014>
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000211833