下記の資料①~⑦によれば、中四国における交通の利便性、設置費用の地元負担、鹿児島県出身知事による奔走などが第六高等学校の設置理由として確認できる。
・神立春樹「第六高等学校・岡山医学専門学校の設立」(資料①)では、『六稜寮史』(資料②)の記述をもとに第六高等学校の設置過程と設置根拠が論じられている。それによると、「山陰・山陽・四国の地域は区域が広く人口が多く、その教育は他の地方に比して進んでいる高等教育を受けようとする青年学生が多いにもかかわらず高等学校がないことから(中略)どこに設置するかといえば、岡山は山陽山陰四国の中央に位置し、交通の便もよい。(中略)それに県立三中学校、私立中学校があって教育は最も進んでいる。このようなことから岡山は高等学校設置の場所として格好の地である」とまとめている。
・『六稜寮史』(資料②)の「六高設置問題の経過」では、誘致運動に携わった岡山県の中心人物として「政府當局-内務大臣西郷従道、大蔵大臣松方正義、文部大臣樺山資紀等を論破するにはこの鹿児島縣出身であつた高崎親章氏は最も都合よき地位にあつたものと云はなければならない」と紹介している。
・明治32年3月10日付「山陽新報」(資料③)には、「没理的空言 高等學校の位地問題と『中國』新聞」と題する社説の掲載があり、広島方面と岡山方面の中学生徒数を統計から比較した上で「岡山の優れる所以を証明するの一根拠としたり」と論じている。
・明治32年3月11日付「山陽新報」(資料④)には、第六高等学校の設置が岡山に決定したことを受けた「岡山縣の一大美挙」と題する社説が掲載されている。その決定根拠については次のように述べられている。
「中國地方に於て岡山を設立地とするの適當なるを是認して終に之れを可決するに至りたるは、(中略)岡山縣が自から奮て献地献金の美擧に出でたるの一事是れなり、(中略)岡山縣の此献地献金の擧なかりせば財政窘迫の際、奈何ぞ彼の増設案の提出を見又た之れが議会の可決を見るに至らんや、然らば即ち今回第六高等學校を岡山に新設することに決定せるは彼の献地献金の美挙あるが為めなり」
・明治33年9月16日付「山陽新報」(資料⑤)には、第六高等学校の開校式の式辞として高崎親章(岡山誘致時の岡山県知事)が、次のように述べている。
「岡山は東方京都の第三高等学校を距り西方山口の高等学校を距り正に中央の位置を占め四通八達の便あり位置の点に於ては何人と雖も決して非難する能はざるべし且つ岡山の地は古来文学の隆昌を以て名あり現今に於ける普通教育の程度亦比較的他に超る者あり是れ本校位置の特に岡山に指定せられたる所以ならん乎」
・明治32年3月7日「衆議院議事速記録」(資料⑥)では、第六高等学校を広島や四国ではなく岡山に設置する必要性について、市島謙吉議員が次のように発言している。
「私ハ岡山アタリニ設ケラレルコトガ相當ト思フ、何故カト申シマスレバ、例ヘバ廣島ノ如キ、此廣島ト云フ處モ無論必要ハアリマセウカラ、置クベキ場合ガアリマスレバ、私共賛成ヲスルノデアリマス、現在ノ場合ハ、ドウカト云ヘバ、山口縣ニ於テハ、私立ノ高等學校ガアルノデゴザイマス、故ニ暫ク山口ニ参ッテモ差支ハナイノデアリマス、四國ニ置クコトニシテモ、豫算ガ出テ高等學校ヲ置ク仕組ニナリマスレバ、ソレモ宜イ、併シ四國ト岡山ト、ドウ云フ關係ニナルカト云ヘバ、岡山ノ方ノ者ハ、四國ニ往ッテモ宜シイデアリマセウガ、山陰道ノ者ハ、ドウシテモ四國トノ間ニ於テ、一ノ高等學校ヲ置ク必要ガアルノデアリマス(中略)幸ニ地方ノ人ガ奮發シテ、三分ノ二ノ金ヲ出スト云フコトデアリマスカラ、國家トシテハ、之ニ反對ヲスル理由ハナイト思ヒマス」
・明治32年3月9日「貴族院議事速記録」(資料⑦)では、谷干城議員が「岡山ヘ高等中學ヲ置クト云フノハドウ云フ譯デ置クノダ、學校生徒ノ人數ヲ調ベテ岡山ノ方ガ多數デアルカラシテ生徒ノ便利ガ宜イタメニ岡山ヘ置クト云フ譯デ決シタ譯デアル」と発言している。