(1)『岡山県大百科事典 上 あ~そ』(資料①)の「かいこうがいしゃ 偕行会社」の項目によると、
「岡山-神戸-大坂間を結ぶ明治前期の海運会社。岡山藩の常盤丸を借り受け、1870年(明治3)営業開始。資本金25万円(推定)。兵庫に本店、岡山に支店を置き、大株主は旧藩主池田氏。西南戦争(1877年)後の経済変動と海運会社乱立による過当競争から経営不振となり、1885年(明治18)偕行会社は河原信可(後、大阪商船会社社長)に株を譲渡して解散した。」とある。
(2)『〔改編〕岡山市史 産業経済編』(資料②)には、資料①の内容を具体的に説明した記載がある。内容は以下のとおり。
「明治新政府は、明治2年10月の布告で西洋型船舶の製造と民間人の所有を許し、翌3年商船規則を公布して、洋式船舶所有者に対して特別の保護を加えることを明らかにした。さらに4年7月廃藩置県の結果、旧藩所有の汽船が政府に帰属したのを機に、以後士族授産・殖産興業の一環として官船の貸与・各汽船会社への補助金下付などの保護育成がなされた。
これに対応して、備前藩会計安井改造は、幕末に藩用で長崎出張の折購入した常盤丸を藩主池田家より借受け、明治3年神戸の富豪橋本藤左衛門を説得して、士族授産会社“偕行会社”なる蒸気船会社を創立した。社長橋本藤左衛門、取締役森沢徳太郎・岸鉄二・津田弘道が就任して岡山・神戸・大阪間の営業を開始した。…(中略)…群小船主の同盟によって、関西海運界の競争は一時終熄を告げたかのごとくみえたが景気は好転せず、もともと利害を異にする船主のことゆえ同盟破約するものが続出し、以前同様、過当競争、運賃ダンピングの状態にもどった。当時、関西海運界の雄、偕行会社においてさえ、船底を張る資力なく、海浜に船を引き上げ、船底を枯葉で焼くという漁船方式で間に合わせる窮状であった。…(中略)…明治18年12月15日、岡山区内山下芳春館の株主総会で、士族授産会社偕行会社(本社神戸市北長挾通六丁目)は解散が決行された。」
(3)『岡山市史 第6』(資料③)にも、「第16章産業 第2節士族授産と殖産興業」の中に、「偕行会社」という項目があり、資料①および②と同様の記載がある。なお、偕行会社の解散の一次文献として、『山陽新報』明治19年2月6日の記事を一部抜粋し、明治18年12月15日にあった株主総会の内容が紹介されている。
(4)資料③より明治19年2月6日の『山陽新報』(資料④)を確認すると、資料③の記述が確認できる。なお、ここでは「偕行会社」を「偕行社」と記載している。
(5)資料②を元に、「偕行会社」の取締役の「森沢徳太郎」、「岸鉄二」、「津田弘道」の関連資料を調べる。
前者2名についての資料は見つからないが、「津田弘道」については『津田弘道の生涯 維新期・岡山藩の開明志士』(資料⑤)があり、偕行会社について資料①および②と同様の記載がある。
なお、弘道は「第10章岡山藩の士族授産」の中で「偕行会社再建取締役」として取り上げられ、以下のとおり、会社再建に奔走したことについて記載がある。
「会社再建のため約1ヵ年、岡山・神戸・東京間に奔走し、松田金次郎を海軍から偕行会社に迎える件こそ成功しなかったが、融資面では、池田家から出資金を仰ぐことに成功し、第1回分は先述のごとく東京で既に受け取っており、第2回分は国立第二十二銀行を通して、後に受け取り、融資を受けるようになる。」