レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20161203
- 登録日時
- 2018/03/26 00:30
- 更新日時
- 2020/04/09 09:21
- 管理番号
- 中央-2017-29
- 質問
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解決
大正の終わりから昭和の初め頃、市ヶ谷の刑務所で亡くなった人で身元引受人がいない場合、どこに埋葬されたのか。
- 回答
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資料1『世界大百科事典』を「市ヶ谷」で検索すると、p.390「市谷」の説明に「市谷富久町には東京監獄(1903-37、のちの市ヶ谷刑務所)が置かれた」とあり、市ヶ谷刑務所の前身が東京監獄ということがわかる。
<東京監獄>、<市ヶ谷刑務所>などをキーワードに、聞蔵(きくぞう)Ⅱビジュアル (朝日新聞社)、ヨミダス歴史館 (読売新聞社)を検索し、死刑の記事を調査した。その結果、読売新聞の1911年(明治44年)1月25日(水曜日)朝刊3ページに「幸徳伝次郎ら12人の死刑執行」の記事があり、その中に、「(前略)引取人無き分は本日雑司ヶ谷墓地にて土葬に附すべし」とある。
更に、国立情報学研究所のDB「CiNii Articles」、皓星社の「ざっさくプラス」、日外アソシエーツの「MagazinePlus」、大宅文庫の「Web OYA-bunko公立図書館版」をキーワード<刑務所、引取、囚人、死亡、雑司が谷、囚人墓地>などで検索した。
その結果、質問に該当しそうな資料が、「ざっさくプラス」と「MagazinePlus」から2件見つかったが、内容を確認すると資料2が該当した。
資料2のp.1「囚人墓地のその後(高野恒幸著)」によると、「雑司が谷霊園管理事務所の北側に、フェンスに囲まれ訪れる人も無い墓地が有ります。此処は現在東京拘置所管理地として、明治12(1879)年以来、都内各集治監・監獄・刑務所に在所中に死亡し、引取り人の無い遺骨五千体余りが埋葬されていた場所でした。都電よりの道を西に墓地が途切れた箇所に、鉄扉を開けると、さらに東京拘置所と書かれた門扉があり、左側沿いに先ず地蔵尊立像とその由来碑、供養碑や更生保護施設在所中に死亡し引取り人の無い遺骨を安置した墓石などが並んでいます。」とある。
また、囚人墓地の墓碑については、「瀧善成氏が『足立史談』第41号に「清亮寺の墓碑(下ノ二)」として、詳しく発表されています。」(資料3)とある。
資料3のp.3「清亮寺の墓碑(下ノ二)」によると寺には、「(前略)そこには立派な三基と、その背後にみすぼらしい一基とが次のようにあるだけである。」とあり、その四基とは、以下のとおりである。
イ 各囚人霊之墓、(中略)明治二十五年七月建、東京集治監、(中略)病死者九拾八名
ロ 合葬之碑、(中略)死亡者百五十名、(中略)明治三十五年七月建立、東京集治監
ハ 倶会一処(後略)
ニ 無縁墓(後略)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 刑法.刑事法 (326 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】世界大百科事典 2 アレネ-イワ / 改訂新版 / 平凡社, 2007.9<DR/031.0/5020/2>
- 【資料2】足立史談 506号 (2010年4月)
- 【資料3】足立史談 1-49号(1968年3月-1972年3月)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000233223