レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年07月26日
- 登録日時
- 2017/03/24 15:52
- 更新日時
- 2017/03/30 17:44
- 管理番号
- tr465
- 質問
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解決
「かんぴょう (干瓢)」について。いつ頃、なぜ、ユウガオ(夕顔)の実を干してかんぴょうを作り始めたのか、また、栃木県の特産品となった経緯も知りたい。
- 回答
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かんぴょうが作られるようになった時期、理由には諸説あるようです。
以下、関連する記述を確認した資料をご紹介します。
■かんぴょうが作られるようになった時期
・『世界大百科事典 6(カヘナ-キス)』(平凡社 2011)
p.485「かんぴょう」の項に、「ユウガオの果肉をテープ状に薄く細長くむいて乾燥したもの。いつごろから作られるようになったかは明らかでないが、《下學集》(1444)あたりから名を見るようになる。」とあります。
・『日本の名産事典』(遠藤元男/〔ほか〕編 東洋経済新報社 1977)
p.196「かんぴょう」の項に、「かんぴょうは古い食物で、室町時代の『節用集』にも記されており、(後略)」とあります。
また、「近江水口御山の井上兵佐衛門が元禄二年(1689)、山神の開墾地にユウガオを栽培し、その実を細長く切り、干しかんぴょうとして売り出した。」ともあります。
・『産業の神々』(林正巳/著 東京書籍 1981)
p.23「夕顔の実を干したものをかんぴょうといって食べていたという記録は、早くも鎌倉時代にあり、(後略)」とあります。
・『地域食材大百科 第9巻』(農山漁村文化協会/編2013)
p.141干瓢づくりの発祥地といわれている、大阪の木津のかんぴょうとその伝播について記述があります。
■かんぴょうが作られるようになった理由
・『日本の伝統産業 物産編』(通産企画調査会/編集、発行 1978)
p.154「カンピョウ」の項に、「昔は、乾燥せずに生のまま食用にしていたが、室町時代に近江の甲賀忍者が乾燥して栄養価を高め長期保存と重量の軽減をはかり携帯食糧にしたとある。」とあります。
・『産業の神々』(林正巳/著 東京書籍 1981)
p.23「畑作地帯では夕顔は、生野菜としても食用されていたが、乾燥させることによって軽い携帯食料として利用されたばかりか、長期保存にたえ、飢饉のときや、野菜不足の冬においても重要な食糧として利用することができることによって、さかんに栽培されていたのであった。」とあります。
■栃木県の特産品となった経緯
・『全国の伝承江戸時代人づくり風土記 聞き書きによる知恵シリーズ9ふるさとの人と知恵 栃木』(加藤秀俊/〔ほか〕編纂 農山漁村文化協会 1989)
p.121-126「下野のかんぴょう 日本一の生産量を誇る(下都賀・河内)」
本文中に「江州(滋賀県)水口の城主だった鳥居伊賀守忠英が、下野国の壬生城に封ぜられてから、ユウガオが栽培されるようになったことが通説になっています。」とあり、そのあらましが紹介されています。
・『壬生町史 通史編 Ⅰ』(壬生町/編、発行 1990)
p.573-574「鳥居氏と干瓢」(「第一章 領主支配 五 鳥居氏時代の壬生藩」)
本文中に「干瓢が何時頃から壬生地域で生産されだしたかは明らかでない。正徳二(一七一二)年に壬生に転封となった鳥居正英が、前領地の近江国水口から伝えたと言われている。一方、水口では、正徳二年に壬生から転封となった加藤嘉矩が壬生から優れた技術を伝えたので、干瓢生産が盛んになったと言われている(『水口町誌』)。」とあり、史実を元に壬生地域での干瓢生産について考察しています。
p.642-643「特産干瓢」の項にも関連記述があります。
・『干ぴょうに関する資料』(栃木県干瓢商業協同組合/編集、発行1984)
かんぴょうの歴史、栃木のかんぴょうの起源等について書かれています。
・『地域食材大百科 第9巻』(農山漁村文化協会/編集、発行2013)
p.181「かんぴょう(栃木県)」の項に、「栃木県での栽培のはじまり」について記述があります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 衣食住の習俗 (383)
- 食品.料理 (596)
- 参考資料
- キーワード
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- かんぴょう
- 夕顔
- 乾物
- 栃木県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000212606