レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年08月13日
- 登録日時
- 2016/10/13 14:52
- 更新日時
- 2017/04/08 11:44
- 管理番号
- 吹-30-2016-001
- 質問
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解決
太閤秀吉が文禄年間に諸大名に築かせたという「文禄堤(ぶんろくづつみ)」の跡がどこにあるか書いてある資料はないか。大阪府守口市内に跡があるそうだ。京街道に沿ってあったという。他にもあればあわせて知りたい。
- 回答
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「文禄堤」は、大阪府守口市内に一部その遺構が残っている。
1.『大阪府の歴史散歩 下 河内・堺・和泉』(大阪府の歴史散歩編集委員会/編 山川出版社 2007.9)p13 の「門真・守口」のページ
「豊臣秀吉は、京・大坂を結ぶ京街道を整備するにあたり、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家に命じ、淀川左岸に文禄堤を築造させた。文禄堤は守口から枚方までの約20kmにわたってつくられたというが、現在はほとんどが消滅し、わずかにこの付近にのみ面影を残している」とある。
2.『街道・古道を歩く 西日本編』(山と渓谷社 2006)p46の「京街道」のページ
「今は車道として整備されている秀吉の文禄堤」の写真が掲載されている。
3.『淀川かわあるき』(淀川ガイドブック編集委員会/編集・著作 読売連合広告社 2008)p36「秀吉と文禄堤」
「文禄堤の距離は約27kmに及びましたが、度重なる淀川の氾濫や改修で堤の大半を消失しました。現在では守口市の本町2丁目付近の約600mの区間が面影を残しています。」とある。
4.『京街道 大阪・高麗橋~京都・伏見宿』(上方史蹟散策の会/編 向陽書房 2002)P33~34
「文禄五年(一五九六)、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家などの毛利一族に命じて淀川左岸に堤を築かせたのが、築堤年号により文禄堤としていまに伝わる。その工事は昼夜をわかたず行われ、近郷からは石という石が集められ、それが墓石であっても神仏を恐れず利用されたという。その距離は、大坂ー京都間の京街道のうちの二七㎞におよび、従来の陸上交通に大きな変革を与えた。現在、そのほとんどは国道一号線に取り込まれてしまったが、守口の町の中心部では、京阪守口駅と、国道一号線にはさまれた高台にその文禄堤が残されている。京街道を一号線から右折、鍵型道(直角に曲がった道。宿場の出入り口などに防衛のために設けられた)の最後の角を曲がると、短い坂道がふたたび左に折れて高台へと通じている。京阪守口市駅の東口辺りから見た場合、西行きの道路の上に橋が架かっているが、その橋上の道が文禄堤である。」とある。
- 回答プロセス
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質問者から「京街道に沿ってあった」「守口市内に跡がある」との事前情報を得ていたので、まず当館の大阪府のガイドブックや歴史の資料の棚を確認し、多数の資料の中身を確認した結果、回答資料を提供した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 8版)
- 近畿地方 (216 8版)
- 参考資料
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大阪府の歴史散歩編集委員会 編. 大阪府の歴史散歩 下(河内・堺・和泉). 山川出版社, 2007. (歴史散歩 ; 27)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009112710-00 , ISBN 9784634248274 -
街道・古道を歩く 西日本編. 山と溪谷社, 2006. (歩く旅シリーズ ; 街道・古道)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008595577-00 , ISBN 463560036X -
淀川ガイドブック編集委員会 編著. 淀川かわあるき : 淀川ガイドマップ 改訂版. 読売連合広告社, 2008.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009276610-00 , ISBN 9784331513118 -
上方史蹟散策の会 編 , 上方史蹟散策の会. 京街道 : 大阪・高麗橋~京都・伏見宿 : 東海道五十七次から五十四次を歩く. 向陽書房, 2002.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003624464-00 , ISBN 4906108458
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大阪府の歴史散歩編集委員会 編. 大阪府の歴史散歩 下(河内・堺・和泉). 山川出版社, 2007. (歴史散歩 ; 27)
- キーワード
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- 文禄堤(ぶんろくづつみ)
- 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
- 京街道(きょうかいどう)
- 大阪府(おおさかふ)
- 守口市(もりぐちし)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000198126