レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019/03/01
- 登録日時
- 2019/03/27 00:30
- 更新日時
- 2019/04/06 00:30
- 管理番号
- 6001037463
- 質問
-
未解決
楠木正行と東大阪市の関係について知りたい。
- 回答
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楠木正行と東大阪市との関係については、1348年の四條畷の戦い(四條縄手の戦い)において現在の東大阪市六万寺町にある「往生院」に正行が本陣をおいて戦った、ということが挙げられます。
・『楠木正成・正行 シリーズ・実像に迫る』(生駒孝臣/著 戎光祥出版 2017.2)
「第三部 楠木正行と南北朝の動乱」(p.71-88)に正行の生涯が記述されており、四条畷の戦いにおいて正行が往生院に軍を進めたと記載されています(p.85)。東大阪市に関係すると思われる記述はこれのみです。
なお、四條畷の戦いにおいて主戦場となった「四條畷」の地については、現在の四條畷市とする説とともに、東大阪市の「四条縄手」であるとする説もあるようです。
・『大阪府史蹟名勝天然記念物 第3冊』(大阪府学務部/編 清文堂出版 1974)
昭和6年刊の復刻です。
p.66-68に「往生院 枚岡南村大字六万寺 東大阪市」の項があり、次の記述があります。
「正平3年正月2日より楠木正行往生院宿坊に陣するや、賊将高師直は、その翌3日の朝、八幡を立ちて四條に着き、(中略)愈々5日四條縄手の決戦となる。この陣形によれば四條縄手は往生院の西北15町ばかり瓢箪山附近なるべし。往生院墓地の正行墓につきては尚一層の研究を要すべし」(p.67)
・『枚岡市史 第1巻 本編』(枚岡市史編纂委員会/編纂 大阪府枚岡市役所 1967)
「第三章 中世の枚岡 第二節 中世中期の枚岡の南北対立」の「二 後村上天皇の時代」(p.215-218)に四条畷の戦いに関する記述があり、現・東大阪市域が戦場になったとの記述があります。
「この時の戦場は広範囲にわたり、玉櫛庄に属していた池島は楠木氏の城塞となり、その後裔と伝える家ものこっている。額田の地も戦場となり、山手町には戦死者の遺骨をおさめたという場所も伝えられている。四条町霊光院の境内も明治時代に開墾中、多数の人骨や武具を発見し、正平の古戦場の一部と考えられ、明治22年10月、久邇宮朝彦親王の染筆になる『南朝忠臣瘞骨之所』の碑が建っている。正行の尊霊は往生院にまつられ、墓も同寺に営まれている。(後略)」(p.216-217)
・『枚岡市史 第2巻 別編』(枚岡市史編纂委員会/編纂 大阪府枚岡市役所 1965)
「第四編 文学 第二章 中古・中世」に「第三節 楠木正行と四条畷の合戦」の節があります(p.491-496)。正行が「戦死」した場所については「必然的に北河内郡の四条畷[現・四條畷市]にならざるを得ないであろう」としています(p.496)。
・『河内四条史 第1冊 本編』(四条史編さん委員会/編集 四条史編さん委員会 1981.1)
「第3章 中世の四条 第2節 南北朝時代」に「4 四条縄手の戦」の節があります(p.212-258)。「四条縄手と四条畷」の項(p.220-222)で、四条畷の戦いの舞台となる「四条縄手」は、讃良郡の四条(現・大東市)であることは「間違いのない事実であろう」としています(p.221)。
・『楠木正行 太平記をかけぬけた河内の武将』(天竹薫信/著 天竹薫信 2006.9)
「四條縄手の合戦について」(p.11-39)で合戦の場所についての諸見解が紹介されています。
〔事例作成日:2019年3月1日〕
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 10版)
- 参考資料
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- 河内四条史 第1冊 四条史編さん委員会∥編集 四条史編さん委員会 1981.10
- 楠木正成・正行 生駒/孝臣‖著 戎光祥出版 2017.2
- 大阪府史蹟名勝天然記念物 第3冊 大阪府学務部∥編 清文堂出版 1974
- 枚岡市史 第1巻 枚岡市史編纂委員会∥編纂 大阪府枚岡市役所 1967
- 枚岡市史 第2巻 枚岡市史編纂委員会∥編纂 大阪府枚岡市役所 1965
- 楠木正行 天竹/薫信∥著 天竹薫信 2006.9
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 大阪
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000254010