レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年10月12日
- 登録日時
- 2018/04/02 11:12
- 更新日時
- 2018/04/18 13:18
- 管理番号
- 県立長野-17-162
- 質問
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解決
長野県に関する書物には「長野県」「信濃」「信州」という文字がみられるが、その違いは地理的なものか、歴史的なものか、その他の要素によるものか。
- 回答
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(歴史)
「信濃」は現在の長野県のほぼ全域を占める旧国。成立は大化改新(645年)の頃だといわれており「信州」はその別称。(県歌「信濃の国」にも「信濃の國は十州に境つらぬる國」とあるが、甲斐国が甲州・遠江国が遠州というように)
「長野県」については、行政的には1871(明治4)年、中野県庁が焼き討ちにより焼失したため県庁が水内郡長野村(現長野市)に移された時に始まる。その後、長野県・筑摩県の2県が設置され、1876(明治9)年に長野県に統一された。(このとき、筑摩県の飛騨(国)の地域を岐阜県に移した経過がある)
(その他)
「信濃」は長野県の古い国名で「信濃国」の名は「古事記」に「科野国」と記されているのが初見となる。このように古くは「科野国」と記されてたが、713(和銅6)年の好字制によって「信濃国」と改められた。738(天平10)年以降信濃から貢進された幾つかの庸調布の大部分にある国印はすべて「信濃」となっている。「しなの」の名義については科の木の適産国によるとする説や山国で級坂(しなさか)があるという説もある。
また「長野」は長野県という名称の起源となった地名で、1570(元亀1)年、武田信玄朱印状に「長野之内 五貫文」とあるのが初見となっています。近世初期の善光寺門前町の古図に「長野町」の町名が見え明治初期には現在の長野市長門町のあたりが「上長野」「下長野」、その周辺に「袖長野」・「中長野」・「西長野」と呼ばれるところがあり、このあたり一帯が長野であったとされています。この名称が明治維新後まで存続して「長野県」になったいわれる。
参考資料
『長野県百科事典』 信濃毎日新聞社開発局出版部/編 信濃毎日新聞社 1981 【N030/2a】
p358-359「しなの 信濃」 p584-587「ながのけん 長野県」
『コンサイス日本地名事典』三省堂 2007 【291.03/サン】p595-596「しなの 信濃」
『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』 平凡社 1979 【291.03/ニホ/20】
p20-21「長野県の成立」 「信濃の国」の項p31-32
- 回答プロセス
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『長野県百科事典』をはじめ参考資料を何冊か調査する。
- 事前調査事項
- NDC
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- 中部地方 (215 8版)
- 参考資料
- キーワード
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- 長野県
- 信濃
- 信州
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000234065