レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年07月12日
- 登録日時
- 2017/11/21 19:09
- 更新日時
- 2024/01/18 14:12
- 管理番号
- 横浜市中央2487
- 質問
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解決
現在の横浜駅西口付近を示したという「袖ヶ浦八景」について知りたい。
- 回答
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「袖ヶ浦八景」は東海道神奈川宿の神奈川台から対岸を見た眺望で、八景はそれぞれ
1「野毛晴嵐」(野毛浦) 2「平潟落雁」(平潟) 3「傘島秋月(傘島または姥島)」
4「石崎夕照」(石島) 5「石川夜雨」 6「鷹巣暮雪」(鷹巣山)
7「光明晩鐘」(東福寺) 8「舟干帰帆」(洲干島または茗荷島)
をさします。
撰定時期・撰定者は不明で、元文元(1736)年に林大学頭信充が「袖ヶ浦八景」という題詠を
寄せていることなどがわかりました。
『ヨコハマ文学散歩 第44回』によると、江戸時代の中ごろ17世紀から18世紀にかけて
袖ヶ浦と呼ばれ、「袖ヶ浦八景」と呼ばれた景色は開港とともに変貌をかさね、『三十五景一覧』
(安政5(1858)年)や明治初期の「横浜八景」へと変化したとされています。
詳しい記載のある資料は以下の通りです。
1 図書
(1)『ヨコハマ文学散歩 第44回』 横浜文芸懇話会 1997.10
p.4「袖ケ浦八景のこと」で石井光太郎氏によって説明されている。
八景の撰定時期・撰定者が不明であること、元文元(1736)年に林大学頭信充が題詠を
寄せていること、八景が神奈川台の対岸の眺望であること、その後開港とともに変貌をかさね、
「三十五景一覧」、「横浜八景」へと変化したことが書かれている。
なお、『横浜江戸散歩』p.95によると、安政5(1858)年に台町の石崎楼主人石崎桃郷により
「神奈川台石崎楼十五景一望之図」(浮世絵)と「三五景一覧」(冊子)を発行しているため
「袖ケ浦八景」は1858年以前の神奈川台からみた眺望を示す可能性がある。
(『横浜江戸散歩』 斉藤司/著 神奈川新聞社 2015.1)
(2) 『神奈川区誌 区制五十周年記念』 神奈川区誌編さん刊行実行委員会 1977.10
p.189 「袖ヶ浦の景(「神奈川砂子」)」の図版。袖ケ浦八景の説明はp.553以降。
p.553-561第二編 第四章 一「袖ヶ浦八景」で袖ケ浦、袖ケ浦八景について説明がある。
袖ケ浦が絶景の地として宣伝されたこと、袖ケ浦八景が誰の命名かは知られていないことが
書かれている。また『江戸名所図会』に雪丹の筆で舟干(横浜弁天)を中心に八景を
ほぼ素描していることが書かれている。
(3) 『江戸名所図会 上』 原寸復刻 評論社 1996.12
p.上662-663「横濱弁財天社」(2)で「八景をほぼ素描している」とした絵図。
『江戸名所図会』が出版されたのは1834-36年であり、その当時の景色をあらわしている。
絵図中に地名・名所として書かれているのは「芒村」「弁天」「姥島」「本牧塙」のみ。
そのほかについてはほかの資料から場所を類推することができる。
p.上626「神奈川之台」(袖の浦の記述あり)
p.上656「袖の浦」(文章による記述)
p.上664-667「芒村姥島」(八景の「芒浦」「姥島」が描かれている)
(4)『横浜近代史辞典』湘南堂書店 1986.1 *『横浜社会辞彙』(横浜通信社大正7年刊)の改題
p.617-618「袖ケ浦の八景」に八景の説明とその地の由来、林信充の序井詩の記載あり。
説明の中で、『横浜社会辞彙』が刊行された当時の場所を示している。
・洲干島(茗荷島。「洲干弁天」(厳島神社)はその後移転。)(北仲通6丁目燈台局付近)
・傘島 (または姥島)野毛浦の海中 (桜木町3丁目鉄道線路の地)
・鷹巣山(戸部村字宮ケ崎の海浜に掘起) (花咲町7~8丁目及伊勢町1~2丁目)
・野毛浦(芒浦とも。戸部村の湾海) (野毛町宮川町花咲町1~2丁目)
・石島 (戸部村北部) (戸部町7丁目)
・平潟 (石崎の西の海湾。天保14年に開墾)(平沼町平沼新田付近)
・光明の晩鐘(光明は太田村東福寺の山号)
・石川夜雨 (記載なし)
(5)『横浜開港五十年史 下巻』 肥塚龍/著 横浜商業会議所 1909
p.64-66「袖ヶ浦八景」について、文章での説明あり。内容はほぼ『横浜社会辞彙』と同じ。
(6)『横浜市史稿 地理編』 横浜市役所/編 臨川書店 1985.12(初版1932,1973版あり)
p.472-473 第3章 第2節 2袖ヶ浦 (袖ケ浦の説明)
p.1046-1048 第10章 11袖ヶ浦八景(大正6年刊『横浜社会辞彙』の引用)
そのほか「横浜八景」等「○○八景」について詳しく書かれている。
(7)『ものがたり西区の今昔』 西区の今昔編集委員会/編 西区観光協会 1973
p.4-7 一、はじめに「袖が浦八景」
主に『横浜市史稿 地理編』『横浜社会辞彙』を引用する形で袖ケ浦八景について説明。
『横浜開港五十年史』や『横浜市史稿 地理編』では『横浜社会辞彙』と同じ文体で
そのまま記載しているが、 『ものがたり西区の今昔』では解説として内容をわかりやすく
説明しているため、こちらのほうが読みやすい。
2 古地図・絵図
以下の古地図・絵図についても確認いたしました。袖ヶ浦八景と時期は異なりますが、
袖ヶ浦からの景色を俯瞰することができるものをご紹介します。URLのあるものは
横浜市立図書館デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」にてご覧いただけます。
(1)「神名川横浜港真景」 万延元(1860)年3月 一立斎(二代)広重
(https://archive.lib.city.yokohama.lg.jp/museweb/detail?cls=collect_01&pkey=00010188)
「横浜海岸図会」と合わせて6枚続きの錦絵。右側に平沼新田にかかる新田間橋、
平沼橋、石崎橋、姥岩、少し先に吉田橋もある。
(2)「横浜海岸図会」万延元(1860)年3月 一立斎(二代)広重
(https://archive.lib.city.yokohama.lg.jp/museweb/detail?cls=collect_01&pkey=00010195)
「神名川横浜港真景」に続く配置の錦絵。神奈川宿台町の茶屋から遠望する構図。
(3)「神奈川港御貿易場御開地御役屋敷并町々寺院社地ニ至ル迄明細大絵図にあらわす」
安政6(1859)年 一玉斎 (貞秀)
(https://archive.lib.city.yokohama.lg.jp/museweb/detail?cls=collect_01&pkey=00012018)
「弁天社」「姥島」「イセ山(鷹巣山)」などが見られる。すでに平沼新田があるため
「平潟」は埋め立てられている。
(4)「横浜御開地明細之図」安政6(1859)年 鳳堂高島計之
(https://archive.lib.city.yokohama.lg.jp/museweb/detail?cls=collect_01&pkey=00012001)
「神奈川港御貿易場大絵図」と同時期のもの。同様に弁天社、姥島等がみられる。
(5)「東海道名所之内横浜風景」(左部分) 万延元(1860)年2月,3月 五雲亭貞秀
(https://archive.lib.city.yokohama.lg.jp/museweb/detail?cls=collect_01&pkey=00012008)
神奈川宿台町とは反対側から港方面を眺めた構図。
石ザキ、野毛浦、姥ガ岩、宮ガサキ、弁天ノ社などがわかる。
(URL最終確認日:2023年12月26日)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 関東地方 (213 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000225272