英語「myth」に対応する「神話」という訳語の発祥や、最初の用例が明記されている文献は見つかりませんでした。そこで下記のとおり、書名や論文標題における具体的な用例等を挙げて回答とさせていただきます。
■文献による調査
○『日本神話伝説の研究(増訂1)(東洋文庫)』(高木敏雄/著 平凡社 1973)
「第三節 明治の神話学研究」に、明治32年ころまでは「神話学のごときはその名称すらあまねく知られ」ていなかった旨の記述があります。
○平藤喜久子:明治期の比較神話学‐スサノヲ論争をめぐって‐
(『宗教研究』75(3) pp.75-98 2001.12)
本邦における、比較神話学受容の経過について触れた論文です。この論文によると、スサノヲ論争がはじまる明治32年までの間、日本の宗教学に大きな影響を与えたのはマックス・ミュラーであるとし、その議論はキリスト教系雑誌『真理』や『六合雑誌』などで紹介されたとしています。そこで、『『六合雑誌』総目次(同志社大学人文科学研究叢書:17)』(教文館 1984.5)を通覧したところ、目次上で「神話」という語彙が最初にあらわれるのは、次の記事でした。
大森金五郎:我国の神話に於ける高天原および黄泉国
(『六合雑誌』第173号 pp.225-233 明治28年5月)
■国立国会図書館が作成・提供する「近代デジタルライブラリー」による調査
「近代デジタルライブラリー」では、本邦における明治・大正期刊行資料のうち、
・国立国会図書館に所蔵があり、
・著作権の保護期間が満了したもの、または著作権処理が完了したもの
の全文を閲覧することができ、書名や目次については語彙による検索が可能です(全文からの語彙検索はできません)。書名または目次レベルで「神話」という語彙があらわれる著作のうち、刊行年の古いものから順に10件を列挙します。
1『森林経済論』(ウェーベル/著 望月常/訳 明治29年12月)
「第一編 第八章 希臘国古代ニ於ケル森林ニ対スル神話的及ヒ宗教的ノ観念。アリストテレスノ林政論。シセロノ愛林説。欧州各国森林荒廃ノ起源」のなかで「神話的及ビ宗教的」の部分に「ミトロギツシエ、ウンド、レリギエーゼ」とルビが打たれています。
2『印度宗教史』(姉崎正治(嘲風)/著 金港堂 明治30年11月)
「第一章 吠陁神話時代」などで「神話」という語彙が用いられています。
3『言語学』(セース/著 上田万年・金沢庄三郎/共訳 金港堂 明治31年8月)
「第八章 比較神話学と宗教学」のなかに「所謂神話(Mythology)あり」(p.212)という記述があります。
4『通俗言語学(通俗百科全書:第11編)』(宮田修/著 博文館 明治32年3月)
「第五篇 第二章 神話学」で「神話」という語彙が用いられています。
5『言語学的宗教学』(姉崎正治/著 哲学館〔明治32年〕)
「第二章 神話の成立及性質」のなかで、「神話即ミソロジー(Mythology)の原語ミュトス(Mythos)はミュオ(myo)即話すの義にして、原始の思想原語が活動せる外物に就きて話すを称して神話といふ」(p.10)と述べています。
6『青年立志成業策』(平瀬竜吉/著 岡崎屋書店 明治32年5月)
「第十二章 神話及び古譚の効用」で「神話」という語彙が用いられています。
7『袖珍通俗神話辞彙』(保志虎吉・加藤玄智/共編 南江堂 明32年6月)
凡例によると、本書は「主トシテPreston氏のA Handy Dictionary of Mythology"ニ依ルト雖又大ニ英獨諸大家ノ神話ニ関係アル諸著ヲ参考シ」編まれたものです。
8『科学的宗教』(パウル・ケーラス/著 長谷川天渓(誠也)/訳 鴻盟社 明治32年12月)
「第六 神話と宗教」で「神話」という語彙が用いられています。
9『宗教学概論(早稲田叢書)』(姉崎正治/著 東京専門学校出版部 明治33年3月)
「附録 第三 比較神話学以前の神話解釈」などで「神話」という語彙が用いられています。
10『上世印度宗教史』(姉崎正治/著 博文館 明治33年4月)
「第一部 吠陁の神話宗教」などで「神話」という語彙が用いられています。
■『日本国語大辞典』による調査
『日本国語大辞典』(第2版)(小学館 2001.7)によると、文学作品における「神話」の用例で古いものとして、次のものがあります。
○『銀鈴』(尾上柴舟/著 明治38年)
「うつくしき神話とあけし森のあさを雌雄の小鹿の花ふくみくる」
○『草枕』(夏目漱石/著 明治39年)
「然し流れて行く人の表情が、丸で平和では殆んど神話か比喩になってしまふ」
○『雁』(森鴎外/著 明治44~大正2年)
「うん。女のために蛇を殺すと云ふのは、神話めいてゐて面白いが」
■明治・大正期刊行の国語辞典の調査
次に挙げる辞典には、「神話(しんわ)」という項目が掲載されていました。
○『新体国語漢文辞林』(小山左文二/著 松邑三松堂 1909)明治42年
〔神話〕神代の諸人のことに關する物語。
○『大辞典 上巻』(山田美妙/著 嵩山堂 1912)明治45-大正元年
しんわ(神話)スベテ、太古ナドノ神ニツイテ様々ノはなし、ものがたり。(p.2098)
○『ことはの泉 補遺』(第六版)(落合直文/著 大倉書店 1912)明治45-大正元年
しんわ 神話。國初時代の傳説。神代のいひつたへ。
しんわがく 神話学。神話を研究する學問。
○『辞海』( [郁文舎編輯所/編] 郁文舎 [1914])大正3年
【神話】神を中心とする一箇の説話。
○『大日本国語辞典 第2巻 く-し』(上田万年/共著 富山房 1916)大正5年
神話:太古の神に關する傳説。神代に關する諸種の説話。
○『新しき用語の泉』(小林花眠/編著 博進館 1921)大正10年
【神話】太古、人類の知識が極めて幼稚なりし時代に、宇宙の諸現象を以て、
神のしわざなりと想像せるに依って生じたる諸種の説話。英語のMyth.
【神話學】いろいろの神話・口碑・傳説等の材料を蒐集比較して、これに科學的
系統を立てんとする研究―それを神話學といふ。英語のMythology.
次に挙げる辞典には、「神話(しんわ)」という項目がありませんでした。
○『明治期国語辞書大系 普2 いろは辞典』(飛田良文/編 大空社 1997.9)
☆明治21(1888)年刊の復刻
○『明治期国語辞書大系 普4 いろは辞典』(飛田良文/編 大空社 1998.4)
☆明治22(1889)年刊の復刻
○『明治期国語辞書大系 普5 言海』(飛田良文/編 大空社 1998.4)
☆明治24(1891)年刊の復刻
○『明治期国語辞書大系 普6 日本大辞書』(飛田良文/編 大空社 1998.4)
☆明治26(1893)年刊の復刻
○『明治期国語辞書大系 普7 和漢雅俗いろは辞典』(飛田良文/編 大空社 1998.10)
☆明治26(1893)年刊の復刻
○『明治期国語辞書大系 普8 日本大辞林』(飛田良文/編 大空社 1998.10)
☆明治27(1894)年刊の復刻
○『明治期国語辞書大系 普9 日本新辞書』(飛田良文/編 大空社 1998.10)
☆明治28年(1895)刊の復刻
○『明治期国語辞書大系 普10 帝国大辞典』(飛田良文/編 大空社 1999.4)
☆明治29年(1896)刊の復刻
○『明治期国語辞書大系 普11 日本新辞林』(飛田良文/編 大空社 1999.4)
☆明治31年(1898)刊の復刻
○『明治期国語辞書大系 普12 ことばの泉』(飛田良文/編 大空社 2003.4)
☆明治31年~32年(1898-1899)刊の復刻
○『国語漢文中辞林』(郁文舎編輯所/編纂 郁文舎 1903)
○『ことばのはやし日本大辞典』(物集高見/纂 青木嵩山堂 1903)
○『和漢雅俗いろは辞典』(高橋五郎/著 いろは字典発行所 1903)
○『言海』(大槻文彦/著 吉川弘文館 1904)
○『新国語辞典』(内海弘蔵/著 宝文館 1909緒言)
■「日本古典籍総合目録」による調査
日本古典籍総合目録データベースを「神話」で検索しますと、次のものが見つかります。いずれも近世以前の著作であり、英語「myth」とは異なる概念で用いられたものかもしれません。
・『東照宮大平神話』( とうしょうぐうたいへいしんわ )
分類:神道 国書所在:【写】東大
・『本元見通神話聞書』( ほんげんみとおししんわききがき )
分類:神道 書写事項:上月/氏 元治2 所蔵者:正宗文庫
■その他
以下の資料を調査しましたが、おたずねの事項について参考になる情報はありませんでした。
『哲学・思想翻訳語事典』(石塚正英/監修 論創社 2003.1)
『世界宗教用語大事典』(須藤隆仙/著 新人物往来社 2004.6)
『日本思想史辞典』(石毛忠/代表編 山川出版社 2009.4)
『日本思想史辞典』(子安宣邦/監修 ぺりかん社 2001.6)
『岩波哲学・思想事典』(広松渉/[ほか]編集 岩波書店 1998.3)
『哲学事典』(平凡社 1979)
『古事類苑 [1] 総目録 索引』(神宮司庁 1914)
『翻訳語成立事情』(柳父章/著 岩波書店 1982.4)