レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/9/23
- 登録日時
- 2016/03/29 00:30
- 更新日時
- 2024/03/29 00:31
- 提供館
- 金沢市図書館 (2310230)
- 管理番号
- 玉川-000264
- 質問
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解決
【道元の遺誡について】 「五十四年、・・・」から始まる道元の遺誡の正確な書下しを教えてほしい。
- 回答
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『道元禅師全集 第17巻』(春秋社、2010年)(113288379)p.271
五十四年。照第一天。打箇■跳。触破大千。※ 渾身無覚。活陥黄泉。
〔書下し〕五十四年、第一天を照す。この■跳を打して、大千を触破す。※ 渾身、覚むるなし、活きながら黄泉に陥つ。
〔口語訳〕五十四年の人生において、天の最高位を知ることができた。〔いまは、そこからなんのこだわりもなく〕飛び跳ねて全世界を打ち破ってしまうのだ。ああ 体全体、置き所に拘ることもない。生きたまま黄泉の国に陥ちてゆくだけなのだから。
解題(石井清純)によると、諸本の異同は以下の通り。
『三祖行業記』「渾身無覚」を「渾身無処覚」に作る。
『三大尊行状記』「活陥」を「活落」に作る。
『建撕記』諸本(1)明州本・瑞長本、共に「忸」なし。(2)延宝本「無処覚」。(3)元文本「渾身」以下省略。(4)訂補本「渾身無著処」に作る。『建撕記』の刊本は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。
【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/1108190/1/1
近年の新解釈(「第一天」を最上なる場所ではなく、「欲界の第一天」すなわち初禅天と解釈するもの)による口語訳は以下の通り。
五十四年生きながらえて、照らし出したのは、欲界の第一天のみ。(しかし、だからこそ)ピョンと飛び上がって、この世じゅうをひと触りで打ちこわすはたらきができるのだ。おお からだ全体、なんの囚われもない。生きたまま死者の国に落ちてゆくだけなのだ。
『道元』角田泰隆/監修(平凡社、2012年)(113206696)p.61
〔書下し〕五十四年、第一天を照らす。この■跳を打して、大千を触破す。ああ 渾身もとむるなく、活きながら黄泉に陥つ。
〔口語訳〕五十四年の間、ひたすら第一天を照らし〈ひとすじに仏法を求め〉、飛び跳ねて宇宙の果てまで駆けめぐった〈正法の仏法とめぐりあった〉。ああ、いきながら黄泉に落ちようとも、もう何も求めることはない。
『道元読み解き事典』(柏書房、2013年)(113461779)p.146
〔書下し〕五十四年、第一天を照らす 箇の■跳を打し 大千を触破す ※ 渾身覚むるなし 活きながら黄泉に陥つ
〔口語訳〕五十四年の生涯 正伝の仏法をあらゆる世界に説き尽くし、今は、その世界も飛び越えて突き破った。?(言葉では表現できない嗟嘆の語)もはや何も求めるものもなく、生きながら黄泉に落ちるのみである。
『日本の禅語録 2 道元』寺田透/著()(講談社、1981年)(129143962)
〔書下し〕五十四年、第一天を照(み)き。箇の■跳を打すれば、触破さる、大千は。※。渾身覚むる無く、活きながら黄泉に落〔陥〕つ。
(口語訳)(前略)このわが身はどこをとっても、行き処を捜すなどということはなく、生きたまますでにあの世行きだ。
なお、『道元小事典』東隆真/著(春秋社、1982年)(11038526)p.109によると、道元の遺偈の真筆(縦28.2cm、横32cm)が京都府竹野郡弥栄町芋野の安養寺に秘蔵されているという(河村孝道「道元禅師御真蹟拝覧記」)。
※は、口へんに夷
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 哲学 (1 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000190230