レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年11月02日
- 登録日時
- 2017/12/21 17:18
- 更新日時
- 2017/12/21 17:46
- 管理番号
- 横浜市中央2503
- 質問
-
解決
横浜市港北区綱島東にある諏訪神社について、次のことが書いてある資料はありますか。
1 年中行事や祭礼について
2 神社前にある力石について
- 回答
-
次のような資料があります。
1 年中行事や祭礼について
(1)祭事暦
例大祭の日取りについては、江戸時代(下記ア)、明治初期(下記イ)の資料では7月27日とされていますが、昭和初期の資料(下記ウ)では9月27日とされています。
現在では、8月最終の土曜・日曜に実施されているようです。(下記カ、キ)
ア 『新編武蔵風土記稿 〔第4期〕 第3巻』 蘆田伊人/校訂 根本誠二/補訂 雄山閣出版 1996.6 p.233
「例祭七月二十七日」
イ 『港北区史』港北区郷土史編さん刊行委員会/編 港北区郷土史編さん刊行委員会 1986.3 p.356
明治初年ごろの南綱島村の概要として、明治3(1870)年12月の「武蔵国橘樹郡南綱島村明細帳」を参考にしたという以下の記述があります。
「諏訪神社では毎年七月二十七日に南・北綱島村組合が祭礼をしている。豊年には祭礼角力を興行する。」
ウ 『横浜市史稿 神社編・教會編』横浜市役所/編纂 臨川書店 1986.3(横浜市昭和7年刊の複製) p.323
「例祭は九月二十七日。」
エ 『綱島東 創立二十周年記念誌』横浜市立綱島東小学校創立二十周年記念誌委員会/編 横浜市立綱島東小学校創立二十周年記念事業 1991.10 p.101
「昔は、九月二十七日がお祭りで、宮相撲が行われ、名士が来て盛んでした。相撲は、明治三十年ころ終わり、その後は、「おかぐら」や「しばい」が行われました。
土地の人たちの『素人演芸会』が開かれ、おみこしがいせいよく町中を練り歩きました。今は八月末の土、日に駅前に縁日が出ています。」
オ 『港北区神社誌』港北区氏子総代会/編 港北区氏子総代会 1987.7 p.24
「一月一日歳旦祭 四月十日春祭 八月二十七日例大祭 十一月十五日七五三祝」
カ 神奈川県神社庁ホームページ
http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=162&cd=1202067&scd=&npg=0(2017年10月6日最終確認)
諏訪神社の例大祭は「8月最終土曜・日曜」とあります。
キ 「7基のみこしが練り歩き 綱島・諏訪神社例大祭 神奈川」
「産経新聞」 2017年8月28日 p.20(神奈川版)
「例大祭は、昭和48年に現在の神社本殿が再建されたことを受けて49年から始まり、今年で44回目。(中略)毎年8月最後の土曜、日曜の2日間に行われている。」と書かれています。
(2)祭礼相撲
『港北区史』p.356に、「豊年には祭礼角力を興行する。」とあります。
『綱島東 創立二十周年記念誌』にも、上記1-(1)-エにあるとおり、宮相撲についての記述があります。
『港北区史』p.359に、天保十年七月に北綱島村の名主、年寄、百姓代の名で書かれた「天保年度祭礼相撲願書」という文書(下書き)が引用されており、その解説として「『会料、札銭』などはとらないことにしているというが、実態は不明である。」と書かれています。また、天保八年の「祭礼角力御出役諸入用帳南北綱島村」という文書にも触れられており、この年の祭礼角力の主な支出内容が挙げられています。
2.力石について
(1)『港北区綱島地区地域探訪』 湘南史跡めぐりの会 〔1998.11〕 p.25
「さし石・もち石それぞれ二個ずつ計四個の自然石がある。これは南北綱島村の名主が奉納したもので刻銘がある。昔はこれといった娯楽もなく、また米俵一俵を担げぬ者はいち人前として認められない時代であった。各種の休みやお祭り夜遊びなどの時神社や、村の広場に集まり力くらべをした。「持石、力石」は持ち上げ担ぐもので、「さし石」は頭の上まで持ち上げる。」とあります。
また、この4つの石それぞれの径の大きさ、刻銘について記述があります。
(2)『神奈川の力石 第2版』 髙島慎助/著 岩田書院 2014.2
p.29に、4つの石の刻銘、大きさとともに、次の説明文(神社に設置してあるものから転載したと思われます)が掲載されています。
「(説明文)力石の由来
江戸時代、天保二卯年、南北綱島村の名主が奉納した。その昔、御祭礼などの折に若者達が力くらべの競技に用いたと思われる。飯田家、池谷家が持ち石とさし石を、夫々一個ずつ奉納し、これを持ち上げた力自慢として力士卯之助、仙太郎の名前が刻まれている。池谷家文書の日記の中で、天保二年四月十五日の項に、この件りが記され、裏付けられている。」
また、p.34には4つの石の写真があります。
(3)『綱島東 創立二十周年記念誌』 p.101
遊び方について少し詳しい記述があります。
「一番重い石を持った人が勝ちですが二通りのやり方がありました。一つは二十貫(約七十五キログラム)から五十貫(約百八十七キログラム)の石を肩のところまで持ち上げるもので「力石」とよびました。もう一つは二十貫くらいの石を頭の上まで持ち上げるもので「さし石」といいました。綱島では昔、六十貫の石を持った人がいたということです。」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 神社.神職 (175 8版)
- 年中行事.祭礼 (386 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000227094