レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013/10/20
- 登録日時
- 2014/05/29 00:30
- 更新日時
- 2014/05/29 00:30
- 管理番号
- 6000005313
- 質問
-
解決
大阪名物「たこ焼き」の発祥について知りたい。
- 回答
-
各種の資料を調査したところ、以下がおよその発祥と考えられます。
※回答文では「ちょぼ焼」「ラジオ焼」「たこ焼」と表記し、引用文中では原文のままの表記とする。
※引用文中「・・・・・」は「略」を表す。
1.昭和初期、地方から「東洋一の工業地帯」「東洋のマンチェスター」大阪に工場労働者が集まってきた頃、「ちょぼ焼」「ラジオ焼」という食べ物の屋台がたくさん出ていた。それは水で溶いた小麦粉を、丸くて小さいくぼみが並んだ型に流して、刻んだコンニャク・ネギ・天かす・紅しょうが等を入れて型どおり長方形に焼き、醤油をつけて(あるいは醤油も入れて焼き)食べるものだった。屋台によっては「ラジオ焼」という名前でも売られており、球形の場合もあった。特においしいわけでもなく、どちらかというと子供向けだった。
2.1933(昭和8)年、福島県から大阪に出てきた遠藤留吉夫妻が「ラジオ焼」の屋台を始め、その後、醤油で味付けした牛肉を小さく切って入れて売り出したところ大人の客が増えてきた。1935(昭和10)年10月、その一人から「蛸を入れる」というヒントをもらって、肉の替わりに小さく切った蛸をいれ、醤油風味のだしで味付けした。1936(昭和11)年から、赤いのれんに白く「たこ焼」と染め抜いて売り出し、疎開するまで屋台でたこ焼を売った。
3.戦後、遠藤氏は大阪市天下茶屋(現在の西成区)に「会津屋」の店舗を開いて、いよいよ本格的に「たこ焼」を売るようになった。もともとのたこ焼は「醤油味」で、現在も「たこ焼きの元祖 本家会津屋」としてそれを主軸商品に据え、また2005(平成17)年には70年ぶりに「ラヂオ焼」を復活させた。
球形の「ラジオ焼」に、1935(昭和10)年10月遠藤留吉氏が「蛸」を入れて「たこ焼」を完成させた、というのが定説となっているようです。
まず、「ちょぼ焼」について『どのくらい大阪』の「たこやき」の項目から引用します。「むしろお好み焼きに似ている」という説明からも、焼き型の形の長方形だったことがうかがえます。
「チョボ焼
明治末から大正初期ごろから、祭りや縁日などの屋台で売られた。「やきやき」ともいわれ、女児に人気があった。戦前までは家庭でもおやつとして焼かれ、たこやきのルーツとされているが、直接の関係はなく、むしろお好み焼きに似ている。焼く道具は15センチ×10センチぐらいの矩形の銅板。小麦粉を溶いて12個ほどくぼみのある板に流し、エンドウ、カマボコ、コンニャクの細かくきざんだものやジャコエビなどと共に焼く、焼きながら好みによってしょうゆをかける。」(p.25)
次に、『タコロジー たこ焼学』の「お人形のスナック見立て【ちょぼ焼】伝」の項目から引用します。
「円いくぼみが整然と並んだおろしがね状の銅板に、水溶き粉をさっと流し入れて、ラジオの形をしたカンテキ(引用者注:七輪)にかけ、上にコンニャクや紅生姜をチョンチョンとのせて焼く。表面がじくじく焼けてくると、今度はカンテキの下段にちょぼ焼きを移しかえ、上部から炭火をあてて完成する。」(p.14)
なお、「ちょぼ」という名前の由来については、同書に続けて、江戸時代人形浄瑠璃のヒット作品を歌舞伎にアレンジされていくことと関連して、次の2点を考察しています。(p.13)
1.義太夫は人形の所作に合わせて全部を唄っていたが、歌舞伎は俳優がせりふもしゃべるため、義太夫と役者のあいだに祖語が生じるようになった。そこで、義太夫本に自分の受け持つ部分を”ちょぼちょぼ”と朱点をつけるようになり、それがちょぼ焼の具の紅生姜に似ているから。
2.人形浄瑠璃の台本のことを院本<まるほん>というが、ちょぼ焼きをお人形さんのおちょぼ口で齧じったらお似合いだから。
このページには、四角いカンテキの上段と下段に、おろしがねのように持ち手がついて丸いくぼみが並んでいる銅板がのった「ちょぼ焼器」と、院本を思わせる「粉を溶いた長方形の白い生地」に、茶色いこんにゃく片と緑色の刻んだネギの上に鮮やかな紅生姜がまるで「朱点」のように「ちょぼちょぼ」と置かれた「ちょぼ焼」のカラー写真が掲載されています。
さらに、長方形の焼き型にもかかわらず、なぜ円いくぼみがついているのか、という点についても、大阪という土地柄から「大阪商人が常時使用していた銭桝」(一文銭を効率よく数えるためのくぼみのついた、取っ手のある桝)と関連させて考察しています。(p.15)
同書では「ちょぼ焼」「ラジオ焼」について、「大阪たこ焼前夜、実録 チョボ焼屋の店先、時 昭和十年、所 大阪市西区 雑喉場市場の附近」で、客の子供達は好みで具を選び、店主は「くぼみ」に具を入れた上からだし汁で溶いた小麦粉を流し、まずカンテキの上段に金型を載せて下から加熱し、その後下段に移して上から加熱する、子供達はちょぼ焼きを一つ一つちぎって食べる様子を説明しています。ここでは、この2つは呼び方が違うだけで、中身は同じで、だしもすでに入っていた、名前の由来はオチョボ口でも食べられるから、とのことです。(p.127)
しかし、「ちょぼ焼」と「ラジオ焼」は形は同じだが中身は違う、という説明もありました。『大阪食文化大全』の”「たこ焼」と「ちょぼ焼」「ラジオ焼」”の項目から引用します。こちらは「チョボ焼」に肉をいれたものを「ラジオ焼」、それに小麦粉をだしで溶きタコをいれるようになって「たこ焼」となった、と説明しています。(p.307)
また、『暮らしと物価 大阪百話』の「たこやき」の項目(執筆:橋爪紳也・京都精華大学講師<当時>)から引用します。「団子」という説明から、ラジオ焼は球形に成型されていたことがわかります。
「ラジオ焼
たこやきの原型は、戦前大阪市内の屋台で売られていたラジオ焼きといわれます。これは小麦粉を水で溶いて、鋳型に流しこんで焼きあげた団子のことです。」(p.130)
続けて、「たこやき」の項目から引用します。
「たこやきの発明
たこやきの創始者は、いま西成区橘1丁目に店を構えている「会津屋」の初代遠藤留吉さん。福島県から大阪へ出て来た遠藤夫妻が、知人にすすめられて、ラジオ焼の屋台を始めたのは昭和10年(1935)の秋でした。遠藤さんは子どものおやつでしかなかったラジオ焼を改良し、なんとか大人の口にもあうものにしようと工夫を重ねました。初めはコンニャクや豆・肉などをネタに加えてみましたが、いまひとつ評判は芳しくなかっか(原文のまま)のです。そんなある日、明石から来たという客が、「大阪は肉かいな。明石はタコいれとるで」。この一言がヒントとなり、肉のかわりにタコをいれ、初めて「たこやき」と名付けました。また小麦粉を、醤油味のダシで溶くようになったのも、そもそも遠藤さんのアイデアで、かくして会津流のたこやきが誕生しました。」(p.130)
この「明石では蛸が入っている」というのは、兵庫県明石市名物の「明石焼(玉子焼)」(生地の卵の割合をふやして、だしにつけて食べる)のことです。『食の民俗辞典』によると、明石海峡附近は「日本の代表的な蛸の生息地」だそうです。(p.205)
また、熊谷真菜氏(現・日本コナモン協会会長)の調査によると、「ラジオ焼にはすでに蛸が入っていた」という証言もあったそうです。インタビューの相手は、父親の代から大阪道具屋筋で調理器具店を経営する千田敞一郎氏、大正15年生まれで、少年時代の昭和初期、当時のちょぼ焼、ラジオ焼の体験者であり、「ラヂオ焼」のほうが大きい球形だったようです。(『たこやき:大阪発おいしい粉物大研究』)
「ーーラヂオ焼というのはどんなものだったんでしょうか。
千田 いまのたこ焼とかわらへんよ。タコや紅しょうが、こうこなんかをきざんだのがはいってたなぁ。こづかいにぎって、一個や二個買ってたなあ。
ーータコはもうはいっていたんですか。
千田 はいっとった。細かくきざんだやつがはいってたなぁ。
ーーそしてちょぼ焼もあったんですね。
千田 ちょぼ焼の方がふるいやろうな。土のかんてきを一〇台くらい並べて屋台が出とったからなあ。・・・・・・・・」(p.69)
「--ラヂオ焼をたこ焼といいだしたのはいつからなんですか。
千田 戦後やろうな。ラヂオ焼というのはラヂオがはいってきた大正からいわれてたと思うな。ハイカラないい感じやったんやろな。明石のタコは有名やったし、向こうでは明石焼いうてますやろ。その影響もあって、タコ好きな大阪の人はタコをだんだん大きくして、たこ焼、というようになった。ちょぼ焼もおいしいけど、あんな細かいもんでは商売にならへんようになっていくわね。舌も肥えてくるし、ものもぜいたくになっていく。ちょぼ焼みたいな子供向きのもんだけでは、屋台もやっていかれへんようになって、ラヂオ焼くらいの大きさになっていったということとちがうかなぁ。・・・・・」(p.72)(1992年2月談)
熊谷氏は、遠藤留吉氏にもインタビューをされています。1933(昭和8)年にラジオ焼の屋台を始めるため、道具屋筋に道具を買いに行って、ラジオ焼に醤油味の肉を入れたり、幼い頃に母親が餅にたまりとかつおだしをつけて食べさせてくれた味つけを参考に工夫したとのことです。
「ーーでもまだたこ焼はなかったんですよね。・・・・・
遠藤 たこ焼はなかった。ラジオ焼の屋台はようけあったけど。・・・・・
そやけど、それがあんましうまいものではないんや。子供相手ならいいかもしれへんけれど、それでは商売にならへん。夜はおとなの客も多い。おとなが買って、おとなでよろこぶものをつくらへんとあかんわ。それでなんとかうまいラヂオ焼を焼こうと工夫した。
いろんなもんをためしに入れてみたけれど、どれもあかんかった。そやけどある日、しょうゆ味でたいた牛肉を切って入れてみたら、案外いけたんでしばらくそれで売ってみた。コナを流した中へひとかけら入れて焼く。”肉焼き”やな。味はラヂオ焼よりましになってたけで、まだもひとつやった。
ーーそれはいつごろのことですか。
遠藤 昭和一〇年の一〇月ぐらいやったと思う。・・・・・
それで肉焼きをはじめて、ちょうどひと月くらいたったある日、お客さんが「なにわは肉かいな。明石はタコ入れとるで」と教えてくれたんや。それから肉のかわりにタコを入れるようになった。ゆでたタコを小さく切って入れる。そのころはタコは安かったしな。
ついでにコナを溶くときに、だしもいっしょに溶くようにしたんや。・・・・・そんでちょっと高級品やったけど、味の素をひとつまみ入れた。これがめっぽううまいんでんが。」(1983年2月談)(p.23-25)
続けて、
「こうして会津屋の味は確立されていった。
そしてこれは同時に、なにわのたこ焼の誕生といってもいいだろう。」(p.25)
と結論し、たこ焼を
1)明石の「玉子焼(明石焼)」
2)醤油味の「なにわのたこ焼」
3)ソースをかけた「ソースのたこ焼」
の3種類に分類しています。(p.9-10)
以上を、たこ焼きの2大要素「蛸と形」の点からまとめると、
1.昭和初期、大阪では「ちょぼ焼」「ラジオ焼」という食べ物が売られていた。おおむね粉を水で溶き、紅生姜などを入れて長方形に焼いたものだったが、屋台(店)によっては、醤油味の肉をいれたり、だしを入れたりもしていた。
2.ちょぼ焼に肉をいれて「ラジオ焼」として売っていた屋台(店)もあった。
3.球形に成型したものを「ラジオ焼」として売っていた屋台(店)もあった。
4.球形に成型し、蛸を入れて「ラジオ焼」として売っていた屋台(店)もあった。
5.球形に成型し、蛸を入れて「たこ焼」として売っていた屋台(店)もあった。
ということになります。
この状況を、熊谷氏は『「粉もん」庶民の食文化』で次のように考察しています。
「食べ物の発祥は同時発生的なケースも多く、いまのように情報がすぐに伝わらない環境で、それぞれが独自に発想して作ったものが、同時期の素材の供給条件などから、近似したものが生まれやすくなるということは十分にありうる。昭和初期、アイデアいっぱいの大阪人のこと、おそらくたくさん出ていたラヂオ焼の屋台では、タコだけでなく、いろんな具材が試されたことだろう。」(p.50)
また、「文化としてのたこやきーー「たこやき文化論」に向けての一考察ーー」では、「露天商たちによる発祥・伝播と思われる」とも説明しています。(『現代風俗'85』p.132-133)
『「粉もん」庶民の食文化』では、さらに続けて、
「ただし七〇年以上も店を守り、今も三代目が商売を継承しているという点で、留吉さんの会津屋は元祖を謳ってもいいと考えている。」(p.50)
と、重ねて結論しています。
一方、熊谷氏は同書で、ソースについても、イギリスの「ウスターソース」から、戦後になって甘みもあってフルーティーな「濃厚ソース」が発売されて人気が出てきたことと関連して、次のように考察しています。
「ほどよい甘みと粘土のある万能調味料、濃厚ソースの開発で、たこ焼きは一気に広がりをみせることとなる。濃厚ソースはとろみがあるので、たこ焼きの皮にしみ込まず、テリとツヤがたこ焼きをよりおいしそうにみせる。ソースのうえに青ノリや削り粉。それだけなら風で飛んでしまいそうなトッピングもソースのおかげで接着できた。
・・・・・いまもかわらぬ大阪名物のスタイルは、濃厚ソースの出現によって確立された、といっても過言ではない。」(p.56)
前出の『大阪食文化大全』でも、「ただ現在のようなソースにマヨネーズ、青海苔などをかけて食べるスタイルは戦後のこと」という説明がありました。
『大阪ことば事典(新版)』から引用します。「戦後大阪で売り出した」という説明から、「ソースのたこ焼」が大阪名物として全国的に広まった様子がわかります。
「タコヤキ(蛸焼き)【名】メリケン粉を溶いて刻んだ蛸・削り節・揚げ玉などを入れ、型に流し込み焼いた食品。戦後大阪で売り出したもので、大阪の名物。大阪には数千軒のタコヤキ屋があるといわれる。最近では全国的な食物となっている。・・・・・」(p.120)
『明治・大正・昭和 食生活世相史』から引用します。戦後20年近くたって、東京でも人気が出てきたことがわかります。
「昭和38(1963)年
6・5(引用者注:6月5日) タコ焼き東京に進出
一月ほど前から大阪生まれの「タコ焼き」が都内で売られ好評。ウドン粉に小エビや紅ショウガなどを混ぜ、タコの足ひと切れ入れてピンポン玉ぐらいの大きさに焼いたもので、銀座通りやデパートの味の街などにも進出。つくっているのはほとんど上方職人。・・・・・。
最後に、熊谷氏命名の「なにわのたこ焼」の味について、ご紹介しておきます。
大阪出身のジャーナリスト、故・黒田清氏が大阪市天満天神(現在の北区)近くに住んでいた小学校1年になるかならない頃、お母様につながる昭和12、13年の思い出として「たこ焼き」というタイトルの随筆に書かれています。当時、母親のお使いで夜店の屋台にアルミの弁当箱を持ってよくたこ焼きを買いにいった冬、かじかんだ手に伝わってくる弁当箱の温かさとともに思い出される、という内容です。(「たこ焼き 大阪」p.203 『たべもの紀行 4』)
「薄黄色、とろり、コリッ
・・・・・
外側はうっすらと焦げた薄黄色、内側は完全に焼け上がってしまってはいないので、それでいてもちろんといた粉のままではないとろりとした感じ。一種たよりないやわらかさのなかにコリッとした小さなサイコロくらいのたこの歯ごたえ、そのとろりとコリッが舌の上で一しょになった一瞬の甘さ、母が愛し、四十年前の私の愛したたこ焼きの味は、まさにそこにあった。」
また、田辺聖子氏は小説「たこ焼き有情」に、ソースのたこ焼き一筋のファンだった主人公の39歳の男性・中矢が、始めて「なにわのたこ焼き」を食べたときの様子を以下のように表現されています。(『春情蛸の足』所収)
「かなり大粒で、聞いた通り、ソースはかかっていない。十五コで五百円だという。
駅裏の屋台より粒が大きい。そうして、屋台のようにころころしていなくて、ふわりとしているが、だし汁につけてたべる黄色い玉子色の明石焼きとちがい、「たこやき色」ともいうべく、きつね色がついている。
青のりもかつおも粉もない。箸で一コつまみあげて頬ばるや、もわーんとひろがる味が、たちまち、(お気に入り)
という感じになってしまった。中は熱く、ホワイトソースというようにとろりとしているが、充分、火が通って粉っぽくもない。外側はかりっと焼けて、中はとろり。それが醤油のこうばしさ、昆布だしのやわらかい味などとミックスして、えもいわれぬ物なつかしい、あとを引く味になっている。
この柔らかさは、ほとんど肉感的な柔らかさである。醤油味の匂いは、日本独特の郷愁みたいなもんやな、と中矢は「味たこ」のたこやきにすっかり陶酔してしまった。とろりと柔い中身が口中で熱い余韻を残して消えると、かなり大きく刻まれた蛸が残る。プチプチとした蛸である。」(p.208)
「中矢は魔法にかかったような気がする。
ソースも青のりもかつおもない。つるんとしたメリケン粉の丸いかたまりが、こんなに玄妙な味を出せるとは、夢のようである。よほど練りあげただしで溶き、味つけをしてあるに違いない。熱々を次から次へと口へ抛りこみ、ビールで冷やし鎮(しず)め、あるいはコップ酒をゆっくり含んで、また、一コたべる。
そのたびに感動する。」(p.209)
以上
[事例作成日:2013年9月3日]
- 回答プロセス
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20130831
- 事前調査事項
- NDC
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- 食品.料理 (596 8版)
- 参考資料
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- どのくらい大阪 毎日新聞ふらいで~と編集部∥編 いんてる社 (25)
- タコロジー 河野/信夫∥編集責任 オタフクソース (11、13-15、127)
- 大阪食文化大全 笹井/良隆∥編著 西日本出版社 (307)
- 暮らしと物価大阪百話 「暮らしと物価大阪百話」編集委員会∥編集 大阪市市民局生活文化部消費生活課 (130)
- 食の民俗事典 野本/寛一∥編 柊風舎 (205)
- たこやき 熊谷/真菜∥[著] 講談社 (9-10、23-25、69、72)
- 「粉もん」庶民の食文化 熊谷/真菜∥著 朝日新聞社 (50、56)
- 現代風俗 現代風俗研究会 [編] 新宿書房 9 (132-133)
- たべもの紀行 4 読売新聞大阪社会部∥編 読売新聞社 (203)
- 春情蛸の足 田辺/聖子∥著 講談社 (208-209)
- キーワード
-
- たこやき(タコヤキ)
- たこやき(タコヤキ)
- 蛸焼(タコヤキ)
- たこ焼き(タコヤキ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 大阪
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000153805