①に関しては「揖保川の支流中垣内川流域に比定されるが未詳。平井庄とも記される。隣接する桑原庄とともに最勝光院領。」との記述が見られた。鎌倉時代末期から室町時代末期までの平位庄の動きが読み取れる資料であった。
②に関しては「揖保川支流中垣内川流域に位置する。鎌倉期~戦国期に見える荘園名。播磨国揖西(いつさい)郡のうち。荘域は江戸期の中垣内・前地・佐江・清水などの諸村。」との記述が見られ、荘園の場所がある程度特定できる資料であった。
③に関しては、漢文で書かれており口語訳や書き下し文がないため正確な解読は難しい。しかし「延元元年の文書に見えて、最勝光院領なり。」や「徳禅寺文書曰、最勝光院領播磨國平位荘」との記述が見られた。
④に関しては平位庄の位置を現在の兵庫県の地図上で特定できる資料であった。平位庄は現在の三木市内に位置しており、最勝光院領との記述も見られた。
⑤に関しては東寺百合文書ゆ函『最勝光院領荘園目録案』に「平位村六石 領家三位法印泰豪 近年六貫文弁済之」との記述が見られた。また「正中二年(1325)の最勝光院領荘園目録案には同院領として播磨国に桑原荘・上揖保・下揖保・平井村のあったことが知られるが、最勝光院は建春門院の御願で後白河天皇が建立され、同院領は皇室領として後宇多院を経て後醍醐天皇に伝えられた。正中三年三月後醍醐天皇は同院の院務職を東寺に寄進され、同院領は東寺の直務所領となった。」との記述が見られた。東寺百合文書になぜ記述が見られたのかがわかる資料であった。
⑥に関しては「最勝光院」と「最勝光院領」の項目があった。「最勝光院は嘉禄二年(1226)に焼亡したが、法燈は絶えず、後にその領とともに東寺に寄進された。」との記述が見られた。また最勝光院領の項目内に最勝光院領一覧の表が添付されており、その表内にも平位村が見られ、「播磨揖保郡平位村 鎌倉時代初期頃成立 典拠最勝光院領庄園目録」との記述が見られた。
⑦に関して、石田善人氏による「播磨国平位荘・桑原荘について」と題する論文には、平位荘の変遷と名田構成、土地所有者などの図の記述が見られた。また平位荘の関係系図の掲載もあった。
⑧に関しては「3 山名氏の播磨支配」の項目に、備後の田総豊里へ揖西郡平位荘地頭分越中跡が宛行われていたとの記述があった。
⑨に関しては「平位荘の伝領」の項目に、最勝光院領の平位荘から徳禅寺領としての平位荘に至るまでの経緯と変遷が記されていた。また「平位荘、徳禅寺領となる 平位荘の内容」の項目に、徳禅寺領としての平位荘の経緯が記されている。また南北朝内乱時に足利義満は平位荘を始めとする三荘について半済をとどめるよう守護赤松義則に命令した経緯やその後についても示されていた。そして「小宅荘・平位荘など 平位荘と赤松政秀」の項目に、徳禅寺領の平位荘は嘉吉の乱後にどのように管理されていたのかという経緯が示されていた。また竜野市域が山名氏に支配されてからの平位荘に対して、段銭以下の諸公事を免除すべきという命令が出されたことなどの記述が見られた。
⑩に関しては最勝光院領と平位荘についての概要と経緯が記されていた。
⑪に関しては赤松氏被官人との関係から徳禅寺領平位荘を取り上げ、勢力を伸ばした赤松政秀と守護赤松政則との間に起こった問題について、その経緯と共に記されていた。