レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年07月27日
- 登録日時
- 2018/08/16 09:51
- 更新日時
- 2018/08/23 10:35
- 管理番号
- 県立長野-18-056
- 質問
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未解決
大井朝光の系譜に中条朝清という人物がいるか。
- 回答
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当館所蔵の資料を調査したが確認することができなかった。
『長野県姓氏歴史人物大辞典』 長野県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会編 角川書店 1996 【N288/158】 p.865-866の中条・中條(なかじょう・ちゅうじょう)の項目に、「中条(なかじょう)は更埴市(現・千曲市)・佐久市に多い」とあった。大井系列の中条の記述については、『姓氏家系大辞典』からの引用としている。
『姓氏家系大辞典 第3巻』 太田亮編 角川書店 1976 【288.1/オア/3】 p.4199-4202の中條(ナカデウ チュウデウ チウデウ)の項目の10に長野県内についての記述があった。ここでは、清和源氏小笠原氏族をあげ、「清和源氏系図」に、朝光(中條太郎)が見られる。同様に「河窪武田系図」にも、朝光(中條九郎)が挙げられている。朝光の子孫に「朝清」は確認できない。
また、別の系統と思われるが、『伊那武鑑』を引用して伊那郡中條邑の中條氏の記述があった。この記述中にも「朝清」は確認できない。
なお、「河窪武田系図」【最終確認2018.8.22】は国立国会図書館所蔵の『系図綜覧 第1』国書刊行会編・刊 1915 に所収されているものを、国立国会図書館デジタルコレクション146-149コマ目で、見ることができる。この系図中に、朝光以外に中條姓は確認できなかった。また「朝清」も見つからなかった。
さらに、伊那地域の中条氏について、前掲の『伊那武鑑』ではないが、当館所蔵の『慶長浅作伊那武鑑根元記』(謄写版)(「文政6年細田幸右ヱ門写本を定本、野溝傳一郎氏所蔵慶応2年写本を参考とした」とある。)のp.13に 「一、 中条笠原中務弟 初代中条左近進信政 応永八年より居住 二代中条新左衛門信度 三代同左馬之助信辰 四代同左近進信平(中条八ツ手領百五十貫文石ニシテ 四百八十六石六斗二升トナル) 天正十年高遠之城ニ籠信忠と戦打死ス 長子八郎民間ニ降ル」という記述があった。
- 回答プロセス
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1. 『長野県歴史人物大辞典』 神津良子編 郷土出版社 1989 【N283/13】で、大井氏、小笠原氏について調べたが、中条姓および「朝清」の記述は確認できなかった。p.510-511の「中条七郎」にも、朝光を祖とする中条姓や「朝清」についての記述は見られなかった。
2. 『姓氏家系大辞典 第3巻』に引用されていた「清和源氏系図」を確認するため、『清和源氏740氏族系図 第2巻』 千葉琢穂編 展望社 1985 【288.3/チタ/2】を見る。第8章 4大井氏 p.587-592 にかけて、主な人物の紹介と「小笠原―信濃大井氏系図」「甲斐大井氏系図」があったが、系図中には「朝清」の名は確認できない。また、大井七郎小笠原朝光の項に「小笠原初代長清七男。信濃国佐久郡大井郷に住し、大井をもって家号とした。また、甲斐国中条を領し、中条をも家号とした。中条氏祖でもある。はじめ甲斐国大井庄に住したが、のちに信濃国に移った。(後略)」とあった。
また、中条家長の項では、「右(左)衛門尉、出羽守。寿永三年(一一八四)二月五日甲子、源氏両将(範頼・義経)摂津に到る。一谷合戦の軍勢、相従ふの輩、中条藤次家長他。元暦元年八月八日甲子、範頼、平家追討使として、西海に進発す。扈従の輩一千余騎、中条藤次家長他。元暦二年正月廿六日範頼、豊後に渡る。同時に進み渡るの輩、中条藤次家長等。文治四年(一一八八)三月十五日辛亥、鶴岡大般若経供養、頼朝臨御に供奉す。五年七月十九日丁丑、頼朝の奥州藤原征伐に従う。」とあった。しかし、家長を含む系図は記載されていない。
3. 佐久市周辺は大井氏が本拠とした地域であったため、『佐久市志 歴史編2中世』 佐久市志編纂委員会編 佐久市 1993 【N223/69/3-2】を見る。大井氏にかかわる記述が広範囲に及んでおり、すべてを確認できなかった。主だった項目や系図などの範囲では、中条(なかじょう/ちゅうじょう)姓にかかわる記述、および「朝清」という名前は確認できなかった。巻末の索引でも「朝清」の記載はなかった。
なお、『佐久市志 歴史編2中世』 の巻末索引で大井氏一族の内、名前に「清」や「朝」の文字を持つものは、「大井貞清」「大井朝光」「大井朝行」「大井政朝」の4名だった。
4. 『長野県小県郡史』(復刻版)千秋社 1998 (小県郡役所編 小県時報局 1922) 【N221/165】p.301-305に大井氏の記載があり、系図もあったが、「朝清」の名は確認できない。また、中条姓にかかわる記述も確認できなかった。この系図は、正棟まで記載があり、本文中で『信濃細石』から「文禄二年に嗣子なくして家系断絶すといふ」と引用している。
5. 大井氏は小笠原氏から派生しているため、『新編信濃史料叢書第12巻』 信濃史料刊行会編・刊 1975 【N208/43/12】に所収されている「笠系大成」巻3 p.85-115にかけて、小笠原長清からの系図があり、朝光(p.101)には、「長清之七男也、母為妾、小笠原七郎 号大井七郎、領知信濃国佐久郡大井、寛元三年乙巳正月九日、頼嗣将軍弓始也、勤其射手、与山内兵衛三郎番、寛治元年丁未六月五日、党若狭前司泰村之乱、而出奔鎌倉」とのみあり。朝光の子孫である大井氏の記述もあるが、中条(なかじょう/ちゅうじょう)姓にかかわる記述、および「朝清」という名前は確認できなかった。
6. 『信濃史料 索引』 信濃史料刊行会編・刊 【N208/28a/31】の人名で、大井氏、小笠原氏、中条氏を検索したが、「朝清」という名前も確認できなかった。
また、中条(なかじょう)氏は『信濃史料 第4巻』p.332に、弘安3年5月9日の『勘仲記』からの記述を挙げて、京都新日吉社の流鏑馬の射手に「六番 大井次郎源朝氏 射手 中条又四郎金刺光直」とするこの一名だけだった。
さらに、『信濃史料』の中にみられる中条(ちゅうじょう)氏は7名。
中条市兵衛(第14巻 p.421)は、中條之郷代官。
中条右近、中条六左衛門尉(第30巻 p.75)は、松澤采女とともに慶長5年に真田昌幸についたことで記録が残っている。
中条喜次郎(第18巻p.60)
中条新右衛門(第27巻p.209)
中条藤資(第10巻p.370, 第12巻p.368, 371, 第16巻p.156, 第29巻p.406)
中条景泰(第14巻p.330)の4名は上杉家の家臣と思われる。
なお、『信濃史料』【最終確認2018.8.22】は、インターネット上からPDFファイルで見ることができる。ファイルのコマ番号までは確認できなかったが、収載の巻数と当該ページを案内する。
<調査済み資料>
・『長野県北佐久郡志』(復刻版)千秋社 1997 (北佐久郡役所編・刊 1915) 【N222/127】
p.394-395,419(大井氏の系図)p.393-446(大井氏)
・『信濃中世武家伝』 田中豊茂著 信濃毎日新聞社 2016【215.2/タト】
p.42-62(小笠原氏)p.253-264(大井氏)
・『新編信濃史料叢書第8巻』 信濃史料刊行会編・刊 1974 【N208/43/8】所収の「四隣譚薮(しりんたんそう)」巻4
p.345-356(大井氏)
・『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷 下巻』 信濃教育会編 信濃史学会 1939 【N209.4/23a/2】
p.1776-1778(「伴野氏・大井氏」の系図)、巻末人名索引
・『源流中世大井氏ものがたり』 大井信 杉並けやき出版 2005 【N288/201】
・『長野県南佐久郡志』(復刻版)千秋社 1997 (南佐久郡役所編・刊 1919) 【N223/90】
p.767(大井氏系図)p.531-535, 543-545(大井氏)
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 8版)
- 系譜.家史.皇室 (288 8版)
- 参考資料
- キーワード
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- 大井朝光
- 中条朝清
- 中条氏
- 大井氏
- 先祖
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000240725