レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年10月30日
- 登録日時
- 2013/10/30 20:23
- 更新日時
- 2013/10/30 22:54
- 管理番号
- 20131030-3
- 質問
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解決
勧修寺について知りたい。
- 回答
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勧修寺(かじゅうじ) [ 日本大百科全書(小学館) ]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA%EF%BC%88%E3%81%8B%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%98%EF%BC%89/ (2013/10/30確認)
「かんしゅうじ」ともいう。京都市山科(やましな)区勧修寺(かんしゅうじ)仁王堂町にある真言宗山階(やましな)派大本山。亀甲山(きっこうざん)と号し、通称は山科門跡(もんぜき)とよばれる。醍醐(だいご)天皇の勅願寺で、承後律師の開基になる。・・・
勧修寺 【かんしゅうじ】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA (2013/10/30確認)
世界大百科事典 第2版
かんしゅうじ【勧修寺】
京都市山科区,真言宗山階派の大本山。山号は亀甲山。〈かじゅうじ〉〈かんじゅじ〉とも。醍醐天皇の生母藤原胤子のため,承俊律師を開山に,生母の祖父の宇治郡郡司宮道(みやじ)弥益の邸址に寺が建てられた。これが当寺の開創で,その年代は900年(昌泰3)説が有力。密教の蘊奥(うんのう)をきわめた7代寛信のときから,当寺は真言小野流のうち勧修寺流の本拠となり,また鎌倉時代には代々法親王が入寺する宮門跡寺院となるなど,平安・鎌倉期に皇室や藤原氏の保護を得て大いに栄えた。
デジタル大辞泉
かじゅう‐じ 〔クワジウ‐〕 【勧修寺】
京都市山科(やましな)区勧修寺仁王堂町にある真言宗山階(やましな)派の大本山。山号は亀甲山。開創は昌泰3年(900)、開基は醍醐(だいご)天皇、開山は承俊。延喜5年(905)定額寺となる。代々、法親王門跡寺院(山科門跡)として栄えた。勧修寺縁起など、多数の古文書を所蔵。かんじゅじ。かじゅじ。かんしゅうじ。
大辞林 第三版
かんじゅじ【勧修寺】
京都市山科区にある真言宗山階(やましな)派の本山。山号は亀甲山。900年醍醐天皇の母藤原胤子の願によって創建。承俊が開基。定額寺(じようがくじ)となる。山科門跡(もんぜき)。かじゅうじ。かじゅじ。
かじゅうじ【勧修寺】 国史大辞典
⇒かんじゅじ
京都市山科区にある真言宗の寺院。亀甲山と号し、山階派大本山である。勧修寺はもともと藤原氏の栄えた山階(山科)の地にある。藤原氏との因縁の深い小野の地に住していた山城国宇治郡大領宮道弥益の娘の列子が、藤原高藤に嫁して一女を生み胤子と名づけた。のちこの胤子が宇多天皇の中宮となって醍醐天皇を生み、寛平八年(八九六)六月三十日没し、小野陵に葬られた。ついで同九年醍醐天皇が即位し、母后の追善のために高藤の子の右大臣定方をしてこの宮道氏の宅址に伽藍を造営させ、昌泰三年(九〇〇)に完成した。そして東大寺の承俊律師を迎え、その高弟の済高が別当職に任ぜられた。延喜三年(九〇三)八月には百七口の高僧を請じて宸筆『法華経』を供養し、同五年九月には定額寺に列した。・・・
[参考文献]
『勧修寺縁起』、平岡定海「定額寺考」(『大手前女子大学論集』一)
寺領
勧修寺には約百巻、数千通にわたる古文書が蔵され、それが春夏秋冬の四つに分類され、そのほか江戸時代の寺領文書、長吏の日次記(ひなみき)などが蔵されている。・・・
勧修寺 / 筑波常遍, 横山健蔵著 京都 : 淡交社 , 1995 (京の古寺から ; 4) ISBN:4473013553
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 寺院.僧職 (185 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 勧修寺 かじゅうじ かんじゅじ かんしゅうじ
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000139807