レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/11/30
- 登録日時
- 2012/07/05 02:00
- 更新日時
- 2012/07/05 02:00
- 管理番号
- 横浜市中央1787
- 質問
-
解決
講談師坂本富岳が所有していた富岳座は現在のどの辺りになるか(例えば現在の建物)を調べたい。
下記の資料に記述があることは確認済みです。
1 『都市と娯楽 開港期~1930年代(首都圏史叢書 5)』 奥須磨子/編著 日本経済評論社 2004
p.22 「赤坂区赤坂北町3-10」
2 『寄席切絵図 新装版』三遊亭圓生/著 , 山本進/編 青蛙房 2001
p.164本文 「青山三丁目」
p.165地図 「青山北町三丁目」
3 『新撰芸能人物事典 明治~平成』日外アソシエーツ編集部/編 日外アソシエーツ 2010
p351 坂本富岳(1867~1924)は富岳座を経営していたとの記述あり。
- 回答
-
富岳座は、現在の「東京都港区北青山2丁目5番地」付近と考えられます。
調査過程と参考資料は下記の通りです。
1 旧住所の特定
事前調査の2点の資料の住所に相違がありましたので、旧住所を別の資料で特定しました。
(1)『明治大正東京散歩 古地図・現代図で歩く(古地図ライブラリー 別冊)
梅田厚/ガイド文 , 逸見幸生/写真 , かよちん/イラスト , 人文社編集部/企画・
編集 人文社 2003
p.54に「明治四十年一月調査 東京市赤坂區全圖」と現代の地図が見開きで比較
されています。個別の建物名は記載されていませんが、『寄席切絵図』のp.165の地図と
同じ場所は「青山北町三丁目」と表記されています。
(2)『明治東京区分地図(日本地図選集)』
日本地図選集刊行委員会/編 人文社 1968
明治37年の「赤坂區全圖」が所収されています。
(1)と同様、上記『寄席切絵図』のp.165の地図と同じ場所は「青山北町三丁目」と
表記されています。
(1)(2)の地図では、ともに「赤坂区青山北町三丁目-10」の土地が少し広く、『寄席切絵図』の
地図の場所と近いことや『都市と娯楽』の表に記載された住所から、
富岳座は「赤坂区青山北町三丁目-10」に所在していた可能性が高いと考えられます。
2 現在の場所
(1) 1(1)の『明治大正東京散歩 古地図・現代地図で歩く』の明治と現在の
地図を比較すると、旧「赤坂区青山北町三丁目-10」は現「港区北青山二丁目」の
「伊藤忠」の建物付近のようです。
(2) 『ゼンリン住宅地図 港区 201004(東京都 3)』ゼンリン 2010
当館所蔵の最新の住宅地図で確認したところ、同付近に「伊藤忠ビル 伊藤忠商事
(株)」の建物がありました。
多少区画が変わっている可能性がありますので、正確とはいえませんが、富岳座は
概ねこの付近にあったと考えられます。
伊藤忠商事株式会社のホームページによると東京本社の住所は下記のものとなってい
ます。参考にお知らせします。
伊藤忠商事株式会社 本社地図ページ http://www.itochu.co.jp/ja/about/map/
・所在地 〒107-8077 東京都港区北青山2丁目5番1号
3 住所の変遷
なお、明治3~40年代の「赤坂区青山北町」が現在の「港区」になるまでの変遷は、
下記の資料で確認ができます。
(1) 『角川日本地名大辞典 13東京都』
「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編纂(角川書店) 1978年
p.997~「近現代 行政区画の変遷」
※ 港区が成立してからの地名の変遷はここには掲載されていません。
(2) 『新修港区史』東京都港区/編(東京都港区)1979年
p.1450~「第二編 第九章 町域の歴史 北青山一~三丁目」に現「港区北青山」
の地名の変遷が掲載されています。
p.1454に「住居表示による現町名町域への変化は、昭和四十一年(一九六六)十月
であった」とあり、「青山北町」が現在の「北青山」であることが確認できます。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 劇場.演出.演技 (771 8版)
- 大衆演芸 (779 8版)
- 日本 (291 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000108212