レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年07月08日
- 登録日時
- 2016/07/08 14:52
- 更新日時
- 2016/12/15 11:50
- 管理番号
- 2015-16
- 質問
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解決
愛媛県松山市永木町にある「宗顕宗匠之碑」に出てくる友沢勘四郎(号・通仙庵宗顕)とその師匠の藤野松陽斎についての資料はあるか。
- 回答
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【資料1】「友澤宗顕(松山市)」の項目あり(p363)。「府中町の人。遠藤某の子にして友澤某を継いだもの通称は勘四郎。華道の宗匠にして通仙庵と号した。初め藤野松陽斎の門に入り、小堀遠州流の秘奥を極め、明治十五年より帷を垂れて華道を教授し、正風会を創立して益々斯道の発展に努め、傍ら茶道に通じ謡曲を好み、儀礼式典に精しかった。常に門弟を愛撫し懇切到らざるなく名声大いに揚がり遠近これに師事するもの前後七千余人に達し、明治大正に亘り華道中興の権威だったと称せられる。大正十五年三月に歿す。門弟愛謀り石手川公園に記念碑を建てている。(現戸主―友澤一得)」とあり、情報源の碑文とほぼ同内容。
【資料2】「第二編 芸能その他 第二章 能狂言 四 明治後期から大正期の発展」に能楽の「神能組」のワキとして「友沢勘四郎(笛)」の名が記載されている(p506-507)。「第二編 芸能その他 第三章 茶華道 三 伊予の華道」(p523-530)は概説的な記述にとどまっており、「遠州流」の項目には友沢勘四郎と藤野松陽斎についての記述はない。
【資料3】「後編 明治・大正・昭和の能 一 幕末・明治期の松山能楽界の人脈」の「笛方」に「友澤勘四郎 明治期の能番組に盛んに名を見出す。号を仙庵一得と云い、生花の師匠であった。」(p72)とある。
【資料4】「第四章 文化 二 芸能 2 能・狂言」(p729-735)には記述なし。「第四章 文化 二 芸能 4 茶道・華道」(p745-750)に、「(裏千家)十三世を継いだ圓能斎宗室は、西条市氷見の森家などの支援を受け、収入の大半は京都へ送り、自身は、十徳姿で県内の門人の家を巡廻指導したようで、その記録も残されている。当時、圓能斎に教えを受け地域で活躍した人に、松山では泉岡宗室(名は新次郎、松山西町)、友沢宗顕(名は勘四郎、北八坂町)、友沢一得(北八坂町)、大原宗蓬(星岡町)、山田宗恵(名は千代子、萱町六丁目)等がいた。(p747-748)「江戸時代は、喫茶とともに伝えられ、池坊を中心に各流派が発展し、明治以降は次の人々によって今日の盛況を見るに至った。(略)この他、友沢勘四郎・友澤幸徳が八坂町で教えた。」(p749-750)とある。
【資料5】p50-51に「通仙奄宗顕宗匠感恩之碑」の記事があり、碑の写真と碑文が掲載されているが特に解説は加えられていない。
【資料6】~【資料8】も調査したが関連する記述はなかった。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 茶道 (791)
- 参考資料
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- 【資料1】『伊予偉人録』(〔城戸八洲/編著〕 西山正志 1978年)<当館請求記号K280/51>
- 【資料2】『愛媛県史 芸術・文化財』(愛媛県 1986年)<当館請求記号K200/31>
- 【資料3】『愛媛能楽史』(森松幸夫/著 愛媛能楽協会 1989年)<当館請求記号K773/1>
- 【資料4】『松山市史 第3巻 近代』(松山市役所 1995年)<当館請求記号K231/49/3>
- 【資料5】『ふるさと八坂』(松山市八坂公民館 1988年)<当館請求記号K293.1/91>
- 【資料6】『愛媛県史 人物』(愛媛県 1989年)<当館請求記号K200/31>
- 【資料7】『予陽叢書 第4~7巻 松山叢談 第1~4』(予陽叢書刊行会 1935~36年)<当館請求記号K200/2/4~7>
- 【資料8】『松山藩と裏千家茶道 茶湯覚書』(武田幸男/著 愛媛県文化振興財団 1994年)<当館請求記号K791/3>
- キーワード
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- 友沢宗顕
- 藤野松陽斎
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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ちなみに
【資料9】『いけばな総合大事典』(主婦の友社 1980年)<当館請求記号793/40>
「古流」の項(p293-296)に多くの人名が掲載されているが、「松応斎」「松盛斎」「松秀斎」など「松○斎」という名前が多いので「松陽斎」も古流の系統である可能性があるかもしれない。天保15年には「松運斎藤野三楽」という人物がいた(詳細は不明)。藤野松陽斎は愛媛県外の人物である可能性もある。
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000194471