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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000058715
提供館
(Library)
京都市図書館 (2210023)管理番号
(Control number)
右中-郷土-10
事例作成日
(Creation date)
2009/10/14登録日時
(Registration date)
2009年10月15日 02時10分更新日時
(Last update)
2011年08月29日 17時17分
質問
(Question)
角倉了以(すみのくらりょうい)の墓はなぜ大悲閣(だいひかく)ではなく二尊院にあるのか。
回答
(Answer)
二尊院(京都市右京区嵯峨)は角倉家の菩提寺です。
【資料1】『寛政重修諸家譜 7』によると,了以の5代前の祖先である徳春(のりはる)から吉晧(きっこう-了以の甥)に至るまで二尊院が葬地とされています。
また【資料2】『角倉素庵』では,従兄弟で岳父である栄可(えいか)の家族や孫の玄紀(はるのり)も二尊院に墓があると記されており,一族の葬地といえます。

大悲閣(京都市西京区嵐山)は,正しくは千光寺(せんこうじ)といいます。了以が,河川開削工事に関係した人々の菩提を弔うために再興しました。晩年はこの寺で,二尊院の僧道空(どうくう)に師事し仏門を修めました。死の直後にその遺命で造った,右手に石割斧を持ち工事用の荒綱の円座に座した了以の像が安置されています。

※角倉了以(1554~1614)は,安土桃山・江戸初期の京都・嵯峨の豪商です。朱印船で海外交易を行うとともに,国内では河川開墾土木工事を進めました。京都の大堰川・鴨川・高瀬川のほか富士川や天龍川でも通船のための疎通事業を成功させました。
角倉家は,初代の徳春から嵯峨に居を定め,了以も嵯峨で生まれ嵯峨で没しました。
回答プロセス
(Answering process)
●まず“二尊院”についての資料を調べる。【資料3】『百寺巡礼 9 京都2』に角倉了以一族の菩提寺,とあり。ただしいつから菩提寺なのかはわからず。

●“角倉了以”から調べる。人名事典や了以について記載がある資料を調べるが,墓の場所以上のことはわからず。

●“名墓”から調べる。【資料4】『京の名墓探訪』に角倉家の菩提寺,とあり。

●“角倉家”から調べる。【資料1】【資料2】のほか【資料5】『角川日本姓氏歴史人物大辞典 26』 “角倉”→本姓は吉田 “吉田”→墓は嵯峨二尊院

●“大悲閣”について調べる。【資料6】【資料7】
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
個人伝記  (289 8版)
寺院.僧職  (185 8版)
日本  (291 8版)
参考資料
(Reference materials)
【資料1】『寛政重修諸家譜 7』 (続群書類従完成会 1980) p226~232
【資料2】『角倉素庵』 (林屋辰三郎著 朝日新聞社 1978) p182,235
【資料3】『百寺巡礼 9 京都2』 (五木寛之著 淡交社 2004) p71
【資料4】『京の名墓探訪』 (高野澄著 淡交社 2004) p75,127
【資料5】『角川日本姓氏歴史人物大辞典 26 京都市姓氏歴史人物大辞典』 (角川書店 1997) p714
【資料6】『嵯峨誌 平成版』 (嵯峨教育振興会 1998) p337~338
【資料7】『京都の歴史を足元からさぐる 嵯峨・嵐山・花園・松尾の巻』 (森浩一著 学生社 2009) p94
キーワード
(Keywords)
角倉了以
二尊院
大悲閣
千光寺
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
事実調査
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
小中学生
登録番号
(Registration number)
1000058715解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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