レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年07月04日
- 登録日時
- 2015/06/11 15:09
- 更新日時
- 2015/06/11 15:11
- 管理番号
- 福井県図20140704
- 質問
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解決
蒋介石が日本に留学している頃に知り合いになった日本人、特に女性の名前が知りたい。
- 回答
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当館蔵書で、蒋介石と係わりのあった日本人女性の名前が記載されたものは下記の通り。
なお、「蒋介石は、日本時代の思い出を積極的に語ろうとはしなかった」(『蒋介石』保阪正康著 文藝春秋 1999より)とあるように、蒋介石の著作などからは日本人女性の名前は確認できなかった。
今回回答に挙げたのは、蒋介石と係わりがあった人物、あるいは人物の関係者が、蒋介石が有名になった後年、エピソードを語る中から日本人女性の名前を拾ったもの。
(1)重松金子(来歴不明)
出典:『蒋介石が愛した日本』関榮次著 PHP研究所 2011
(2)津渕美智子(来歴不明)
出典:『蒋介石が愛した日本』関榮次著 PHP研究所 2011
(3)美智子(姓・来歴不明)
出典:『蒋介石に棄てられた女』陳潔如著 加藤正敏訳 草思社 1996
(4)渡辺テル(三ツ一洋食店経営者の長女)
出典:『蒋介石秘録 2』サンケイ新聞社著 サンケイ新聞社出版局 1975
(5)梅屋とく(梅屋庄吉の妻)
出典:『ラスト・バタリオン』野嶋剛著 講談社 2014
(6)恵子(姓・来歴不明)
出典:〈知る人ぞ知る 日本人女性をかけて決闘した蒋介石〉「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年12月19日掲載
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2011-12/19/content_24190934.htm
(その他:日本留学よりも後に知り合った可能性が高い日本人女性)
・長岡磯子(第十三師団長・長岡外史の長女)
出典:『蒋介石秘録 2』サンケイ新聞社著 サンケイ新聞社出版局 1975
・増田千代子(有馬ホテルの経営者・増田卯三之助の妻)
出典:『蒋介石秘録 7』サンケイ新聞社著 サンケイ新聞社出版局 1976
・梅屋千世(梅屋庄吉の長女)
出典:『蒋介石秘録 7』サンケイ新聞社著 サンケイ新聞社出版局 1976
- 回答プロセス
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1.自館蔵書検索で「蒋介石」と検索し、関連資料をブラウジング
(1)『蒋介石が愛した日本』関榮次著 PHP研究所 2011
(2)『蒋介石に棄てられた女』陳潔如著 加藤正敏訳 草思社 1996
(3)『蒋介石』保阪正康著 文藝春秋 1999
(4)『蒋介石と日本』黄自進著 武田ランダムハウスジャパン 2011
(5)『蒋介石秘録 2』サンケイ新聞社著 サンケイ新聞社出版局 1975
(6)『蒋介石秘録 7』サンケイ新聞社著 サンケイ新聞社出版局 1976
(7)『高田市史 第1巻』高田市史編集委員会編 高田市役所 1958
(8)『ラスト・バタリオン』野嶋剛著 講談社 2014
以下、上記資料の質問関連事項の記載について。
(1)p38「この(蒋介石が革命に闘争に奔走した上海時代)時期には日本女性との親密な交際が彼の生活に加わって」、p43「蒋緯国は、蒋介石の親友戴季陶と重松金子との間に東京で生まれたが、すでに結婚し子供もあった戴季陶が困っているのを見て、蒋介石が自分の養子にして助けたというのが通説である。また、津渕美智子という緯国の生母とする異説もある。(中略)蒋介石を緯国の父親とする説もあとを絶たず」、p49に1919年孫文の代理として日本訪問した際に横浜の重松金子を訪ねていると記載有り。
(2)p88-91に蒋緯国の母親の名前として、日本人女性の「美智子」とあり。姓は不明。
(3)p23-24に蒋介石と同じ高田連隊に籍を置いていた「霜田上等兵」が東京日日新聞新潟版に語った思い出が転載してあるほか、p24に「蒋介石は、日本時代の思い出を積極的に語ろうとはしなかった」と記載有り。
(4)p54に1927年に訪日した際に「高田連隊時代の上司であった第十三師団長・長岡外史、第十九連隊長・飛松寛吾など」世話になった恩人に会見したと記載有り。
(5)p60-61に「蒋介石の無二の親友である張群」による振武時代の蒋介石の学生生活の模様の記載有り。ただし二人の他の人名記載は無し。p208に高田連隊時代の上司の記載有り。以下引用「第十三師団長は長岡外史であった。また野砲兵第十九連隊長は飛松寛吾、留学生を直接指導したのは陸軍大尉・小山田三郎である。彼らは訓練と規則を課することにおいては厳格で少しも容赦しなかったが、日常生活では優しく接触した。」p208-209に蒋介石が1927年に長岡外史を訪問した時のエピソードが、長岡外史の長女・長岡磯子の談話(出典:長岡(現姓朝吹)磯子著『八十年を生きる』)と長岡外史・磯子の写真とともに記載有り。p213-214に三ツ一洋食店経営者の長女・渡辺テルによる蒋介石のエピソードの記載有り。また『高田市史』からの引用として、蒋介石が高田連隊に配属された頃、日曜日に上官が清国留学生を引率して、高田市内の三ツ一洋食店などで脂っこい料理を食べさせてさびしさを慰めたとあり。p223-224に「日本人を知るために、蒋介石は地元、高田の人びとともひろくつき合った。その当時、八百屋(青果商)の看板を書いたというエピソード」の記載有り。エピソードは青果商「ワタヤ」の主人・橋場増吉の義理の娘・橋場トモが生前の増吉から聞いたもの。
(6)p172-192に1927年の日本訪問についての記載有り。宋美齢の母・倪桂珍が滞在していた有馬ホテルの経営者・増田卯三之助の妻・増田千代子と意気投合したエピソードの記載有り。エピソードを語ったのは、千代子の息子・増田寮。その他、梅屋庄吉を訪問した際のエピソードを庄吉の長女・国方千世が語っている。p182に、中国革命同盟会(振武学校在学時に加入)時代のの旧友らと昔話に花を咲かせたとあるほか、主な出席者名の記載有り(頭山満、内田良平、佃信夫、萱野長知、梅屋庄吉)。
(7)p817-818「蒋介石の入隊」で、野砲兵第十九連隊への配属と果物商わたやの看板についての記載有り。
(8)p44に「蒋介石は二十代前半の日本留学時代、(千葉県)岬町の梅屋の別荘にしばしば遊びに来て(中略)梅屋の妻・とくを母のように慕い(中略)とくも(中略)わが子のように可愛がった」とある。p64に「蒋介石にとって、もっとも濃密な「日本体験」は新潟県の高田で一兵卒としてすごした経験であることは、誰も異論がないだろう。蒋介石の高田生活については、川島真・東京大学准教授の論文「蒋介石の高田時代」などでくわしい検討が進んでおり」とあるが、同論文が掲載された雑誌「中国研究月報」は、当館および県内図書館では所蔵無し。
2.Googleで関連事項を探す。
(1) 〈知る人ぞ知る 日本人女性をかけて決闘した蒋介石〉「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年12月19日掲載
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2011-12/19/content_24190934.htm
・・・高田連隊時代に恵子という日本人女性をめぐって張希騫と争ったという記事有り。出典は呉才仁作『老年生活報』。なお1.の資料中に、恵子・張希騫という名前は確認できず。
(2)ウィキペディア「蒋緯国」項に重松金子の記載有り。以下引用。
「蒋緯国は蒋介石の次男である。本人は蒋介石の養子であることを否定していたが、晩年に著した自伝『千山独行 : 蒋緯国的人生之旅』の中で、生父は戴季陶であり、母親は日本で看護師をしていた重松金子であることを認めている。」
(3)英語版ウィキペディアの「蒋緯国(Chiang Wei-kuo)」項には、重松金子はShigematsu Kanekoと記載されている。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 中国 (222 8版)
- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000175743