レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2006/11/29
- 登録日時
- 2007/01/11 02:10
- 更新日時
- 2007/01/11 11:29
- 管理番号
- C2006M1557
- 質問
-
未解決
夏目漱石の『坊ちゃん』に、松山中学で授業の開始の合図をラッパ手が知らせるというくだりがあるが、このラッパ手の詳細(ラッパ手は単に授業の合図のためだけにいたのか、軍隊のラッパ手が兼ねていたのか、主たる目的があったのか、など)や、始業や終業の合図に使われたことがわかる資料を紹介してほしい。
- 回答
-
※【 】内は当館請求記号
「坊っちゃん」に出てくるラッパ手の詳細についてですが、明治時代の中等教育に関して、ラッパ手は単に授業の合図のためだけにいたのか、軍隊のラッパ手が兼ねていたのか、主たる目的があったのか等を明記した資料は見つかりませんでした。しかし、『軍隊らっぱ誌』(喇叭保存会 1994 【KD265-E18】)の19~21ページには「民間における喇叭」という章があり、20ページには「当時の民間での喇叭吹奏者は大半が少年であった」ことや「当時の(民間の)喇叭人口は軍隊の喇叭手よりもはるかに多かった」ことなどが述べられていました。また、同資料20~21ページには、次のような記載がありました。
「吾々の少年時代は何処でも喇叭の音が聞こえ、学校の始業や休み時間、朝礼等の合図として喇叭の鳴らない方が不思議に思えました。町中で喇叭を吹いて歩いても咎める人もなく喇叭を吹く者は重宝がられ何かあると必ず一役買って出ると言う具合でした。これは喇叭が軍隊を代表しているかの如き感を抱いていたからであり喇叭一つで大軍を動かすことを考える時たまらなく喇叭にひかれたものであります。このようにして成長した少年達が軍隊に入って喇叭手になり、また信号兵になったかと思うと実はその例は非常に少なく殆ど喇叭を手にした事もない人が喇叭手や信号兵になったのです。これは喇叭に対する考えが軍隊と民間では大きく違い、かけ離れたものであった事に外ならないと思います。喇叭手や信号兵の辛い厳しい現実と実績が民間では、その華やかなスター的表面だけに憧れ、羨望として受け取られていたに過ぎない事が、この様な事実となって現れる結果になってしまったのではないかと思われます。」
この「吾々の少年時代」の時期に関してですが、同資料28ページの「喇叭保存会会員」の一覧表には、編著者の鈴木尚枝について「品川区 鈴木尚枝 大正9」という記述がありました。生年とは明記されていないものの、鈴木尚枝は大正9年生まれと思われるため、「吾々の少年時代」は大正末期から昭和初期ではないかと推定されます。
明治から若干時期が下りますが、これらの記述から、大正~昭和初期にかけてはラッパが学校の始業や休み時間、朝礼の合図として使われていたこと、軍隊のラッパ手以外に民間のラッパ吹奏者もおり、その多くが少年であったことなどが推察されます。
なお、『日本ラッパ史』(山口常光著 1973 【KD265-6】)の34ページには、「明治6年9月、陸軍戸山学校が開校されたが、その第1期生から体育武技に関する科目の外、ラッパの教育が始められた。全国各隊からラッパ長候補者を入校させて、約2ヶ月で卒業させた。」との記述があり、明治初期から軍隊ではラッパを教えていたことが指摘されています。
この他、学校教育という観点から次の資料を調べましたが、ラッパ手に関する記述は見つかりませんでした。
『日本近代教育史料大系』第1~9巻、附巻1・2 龍渓書舎 2001 【FB14-E156】
『近代日本軍隊教育史料集成』第1~12巻、解説:柏書房 2004 【AZ-655-H19~31】
『学校管理法 : 附・教育法令』大日本図書 明27.6 【YDM46336 (マイクロフィッシュ)】
『学制百年史』(帝国地方行政学会 1972 【FB14-65】
『学制百二十年史』ぎょうせい 1992 【FB14-E133】
『日本近代教育史事典』平凡社 1971 【F2-53】
- 回答プロセス
- 事前調査事項
-
「八尾高校百年誌」p.25、「愛知県立岡崎高等学校創立100周年記念写真集」p.10,170、「旧制中学物語」、「ラッパ手の最後」
- NDC
-
- 楽器.器楽 (763 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 金管楽器
- ラッパ手
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 公共図書館
- 登録番号
- 1000032798