レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2000/08/31
- 登録日時
- 2005/12/13 02:12
- 更新日時
- 2010/11/25 02:01
- 管理番号
- 新県図-00110
- 質問
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解決
1.明治五年五月及び明治六年に柏崎県が定めた、村郷社の規則
2.明治六年十一月に新潟県が定めたとされる神社制度の内容
出典:『府中八幡宮』(平野団三 昭37)35p
- 回答
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『近代の集落神社と国家統制』によると「明治維新期の集落神社の改革は、官社以下大小神社の順序定額等、府藩県全国共通の規則を定めることから着手された」とあり、社格等に関する規則は中央政府による布告で定められていました(明治4年7月4日布告 郷社定則[321号])。
ただし、「郷社の候補選定」については、「神祇官の指図を仰ぐため地方官が府藩県社と郷社の候補を選定するについて、「社格ノ等差地方の適宜ニ任ス」とされ、あまりにも漠然としていた。」とあることからも、作業そのものは各地方で行われ、候補選定については混乱があったことが読み取れます。
以上のような明治期の神社制度の変遷や混乱の様子をより詳しく知りたい場合は、上記資料で概観できるほか『日本宗教制度資料類聚考』や『法規分類大全 26社寺門』などで当時の布告そのものを調べることもできます。
つぎに、明治初期における県内の神社の状況については『新潟県史 通史編6』p522から記述が始まり、p524~526にかけて「県社、郷社、村社」の説明があります。
また、『新潟県史 資料編14』ではp657から社格の制定に関する記述が始まり、p661には神祇省への上申として県郷社の社格に関する文書が載っています。
前述のように神社制度は中央政府によって定められていることから、県知事名で出されている社格に関する文書は基本的に上申の形をとっており、村社、郷社として選定し、教部省に報告するといった内容の文書が中心となっています。
なお、こうした文書の中に「府中八幡宮」選定の記述がないか調べましたが、残念ながら見つかりませんでした。また、当時の『新潟県知報知』も年月日をしぼり確認しましたが見つかりませんでした。
柏崎県の通達類については、『柏崎県史』には宗教制度に関する部分がなく、また『新潟県知報知』のような文書を公的機関でまとまって保存しているということもないため調査は不可能です。関係機関にも確認をとりましたが、『新潟県史』に記載されている以上の文書は発見できていないとのことでした。
なお、柏崎県に関する現存する文書で主要なものは『柏崎市史 下巻』や『柏崎市史資料集 近現代編2』にも載っています。
『新潟県史 通史編6』p525に「県社以下の社格の決定は、廃藩置県や、合県があって混乱した。柏崎県では、明治五年四月郷村社を決めたが、村々から村社の変更願いがあり、十一月には神社掛り、祠官、祠掌の合議で郷社を決め直し、村社は「庶民の帰依ニ任セ」ることにした。」とあるように、府中八幡宮の社格の変遷については、明治3年の布告により提出された「神社明細取調帳」や中央政府による神社制度の影響の他に、柏崎県が新潟県に統合されたことによる柏崎県下の県郷社の再編成や、柏崎県内の事情など、様々な要因が絡み合っていると考えられます。以下に参考とした資料を列記いたします。
『近代の集落神社と国家統制』森岡清美(吉川弘文館)175-Mo62 p243~
『日本宗教制度資料類聚考』伊達光美(臨川書店)165-D44
『法規分類大全 26 社寺門』内閣記録局(原書房)320-H82-26
『稿本新潟県史 第6巻』新潟県(国書刊行会)N2*00-N724-6 p265~
『新潟県史 通史編6』(新潟県)N2*00-N724-6 p522~
『新潟県史 資料編14』(新潟県)N2*00-N724-S-14 p657~
『柏崎市史』下巻(柏崎市)N2*24-Ka77-3 p102~
『柏崎市史資料集』(柏崎市)N224-9-代-2
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 神道 (170 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 明治初期の社格制度
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 簡易な事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般利用者
- 登録番号
- 1000025811